これは、当時のわたしの家の庭です。
(実際には、大火砕流の後、避難生活中。
何月かはわかりません。灰かぶりで荒れた庭。)
夜になって、母たちが帰宅。
病院にはたくさんの被災者が運ばれて、混み合い、渋滞もあり、なかなか帰って来られなかったそうです。
その夜、父が帰宅したあと、両親の話し合いを隣の部屋から覗いていたら、そのまま荷物をまとめて避難することになりました。
同じ島原の他の親戚の家に行くことに。
翌日には南有馬町の祖父母の家に避難しました。
あの日以来、学校に通うこともなく、
我が家にも住むことはなかったです。
1週間ほど、祖父母の家にいて、学校も通えずにいました。
避難場所に指定された体育館にも行きました。
ある日父が見つけてきた家は、
隣の隣町の、国見町土黒でした。
家族5人が10畳一間に並んで寝る広さ。
肉屋さんのテナント後の場所。
お風呂もない川のそばの長屋でした。
4ヶ月の避難生活のあと、
長崎市内へ移り住み、あの家に戻ることはありませんでした。
学校に置いたままの荷物も戻ってきませんでした。その中には、家族旅行の写真もあったので、当時はとても悔やみました。
救援物資で、人の名前が入った文具や洋服を全国からいただきました。
手元には何もなかったので、有り難く使用させていただきました。
義援金というものも、有り難く頂戴したと母に聞いていました。
全国からの募金のおかげです。
避難勧告が解除され、
いつしか家を洗浄し、後に売却されました。
大火砕流がなかったら、
あのまま島原にいたと思います。
今とは、どう違う道になっていたのかな。
あの日人生が一変しました。
私たち家族は、無事でしたが、
同じ学校の家族の人をはじめ、
多くの方々が被災し、犠牲になりました。
報道関係者、消防団員の方々、
200年も近く起きていなかった噴火災害。
知らなかった過去のこと。
戦争もそうですが、
私たちは経験していないことも、
語り継ぐことがどれだけ身近に感じるか。
島原は復興しました。
今でも当時の映像をみると、
故郷の被災した姿は、涙が出ます。
ここまで詳しく書いたのは初めてでした。
30年。忘れないように。
私にできること。
忘れない。語り継ぐ。
そして、自分たちが生かされたように、
災害の被害があった方々へ、
気持ちばかりにはなりますが、募金をすること。
私が生まれ育った故郷。
島原市。
島原のためにできること。
これからも力になりたい。
雲仙普賢岳大火砕流で犠牲になられた方々、
ご冥福をお祈りします。