30年が経ちました。あの日を忘れない | 坂本麻衣のブログルーム*ちょっとtea time*

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今から30年前。
1991年6月3日


これは、当時のわたしの家の庭です。

(実際には、大火砕流の後、避難生活中。

何月かはわかりません。灰かぶりで荒れた庭。)


当時、第五小学校4年生でした。
前年11月の噴火から、当時よくわからない中にも、危険で不安なことが起きていることは、理解していました。

火山灰が降る中、マスク登校や、ヘルメット登校
防空頭巾を学校において、避難訓練。
体育館には、すでに避難生活している人もいました。

6月3日、

学校のクラブで手芸部にいたわたし。
帰宅する時には、傘を開くと黒い灰の混じった雨が降っていました。
傘がどんどん黒くなり、
灰混じりの雨が跳ねて洋服が汚れながら
どんよりして、サイレンがなる中、
ひとり帰宅しました。

いつもなら母がいるのに、
島原温泉病院に入院していた祖母に付き添う祖父を迎えに行った以来、なかなか帰宅しない母と祖父と妹(三女)。

私と妹(当時一年生の次女)2人、
テレビをつけても何が起きているかわからないけど、いつもと様子も違うし、
外を見ると怖くて不安で、近所の家に駆け込みました。

携帯電話もない時代。
とても不安でした。


夜になって、母たちが帰宅。

病院にはたくさんの被災者が運ばれて、混み合い、渋滞もあり、なかなか帰って来られなかったそうです。

その夜、父が帰宅したあと、両親の話し合いを隣の部屋から覗いていたら、そのまま荷物をまとめて避難することになりました。


同じ島原の他の親戚の家に行くことに。

翌日には南有馬町の祖父母の家に避難しました。


あの日以来、学校に通うこともなく、

我が家にも住むことはなかったです。

1週間ほど、祖父母の家にいて、学校も通えずにいました。

避難場所に指定された体育館にも行きました。


ある日父が見つけてきた家は、

隣の隣町の、国見町土黒でした。


家族5人が10畳一間に並んで寝る広さ。

肉屋さんのテナント後の場所。

お風呂もない川のそばの長屋でした。


4ヶ月の避難生活のあと、

長崎市内へ移り住み、あの家に戻ることはありませんでした。


学校に置いたままの荷物も戻ってきませんでした。その中には、家族旅行の写真もあったので、当時はとても悔やみました。



救援物資で、人の名前が入った文具や洋服を全国からいただきました。

手元には何もなかったので、有り難く使用させていただきました。


義援金というものも、有り難く頂戴したと母に聞いていました。


全国からの募金のおかげです。


避難勧告が解除され、

いつしか家を洗浄し、後に売却されました。


大火砕流がなかったら、

あのまま島原にいたと思います。

今とは、どう違う道になっていたのかな。

あの日人生が一変しました。



私たち家族は、無事でしたが、

同じ学校の家族の人をはじめ、

多くの方々が被災し、犠牲になりました。


報道関係者、消防団員の方々、


200年も近く起きていなかった噴火災害。

知らなかった過去のこと。


戦争もそうですが、

私たちは経験していないことも、

語り継ぐことがどれだけ身近に感じるか。


島原は復興しました。

今でも当時の映像をみると、

故郷の被災した姿は、涙が出ます。


ここまで詳しく書いたのは初めてでした。

30年。忘れないように。


私にできること。

忘れない。語り継ぐ。

そして、自分たちが生かされたように、

災害の被害があった方々へ、

気持ちばかりにはなりますが、募金をすること。


私が生まれ育った故郷。

島原市。


島原のためにできること。

これからも力になりたい。


雲仙普賢岳大火砕流で犠牲になられた方々、

ご冥福をお祈りします。