27年もたちました。
あの日のことは今でも鮮明に覚えています。
雲仙普賢岳噴火災害。
大火災流で43人もの命が失われました。
あの日、島原第五小学校四年生だった私。
下校時のこと。
あの日以来、避難生活が始まり、私が第五小学校に戻ることはなかったこと。
(半年の避難生活の後、父の仕事の都合で長崎市内へ移り住みました)
災害は、突然生活を一変させる。
住んでいた家も、学校も、お友達とも会えなくなる。
命があることに感謝すべき。
そして、全国からの義援金や救援物資に支えられていた避難生活。
9歳だった子供ながらに、
その有り難みは感じていました。
全国からの名前が入った文具や洋服など、
おさがりをいただいて生活していました。
故郷島原は、今でも大好きなまち。
災害は、今では知らない世代がたくさんいるけど、噴火、火災流の恐ろしさは体験した。
山は、落ち着くし、空気も美味しいし、
癒してくれる。
でも怖さも忘れない。
地元の人たちの命を奪ったこの災害は、
忘れてはいけない。
同時に助けてくれた全国からの寄付にも感謝して、助け合っていきたいと教えてもらえた。