一連の宝塚事件と宙組再開で、幾人かのブロガーさんと、意見交換をして感じたことを備忘録として残しておきます。


ある方が云ってましたが『宝塚を観劇し、グッズを買い続けるのは、宝塚を消費し続けることに他ならない』ということです。


『宝塚を消費する』とは、タカラジェンヌの人生、時間、労力をすり減らし続けるに他ならない。


それは大きく3つに分類されるかと思います。

1.宙組を擁護し、賛美する人

2.宙組を批判はするが、他組は観る人

3.宙組のあり方には疑問はあるが、ご遺族との合意、歌劇団の改革を見たいという人


そもそもが阪急電鉄、宝塚歌劇団、俳優が一体となって、いじめ・パワハラを無くそう、改めようとする意識と行動を即座に移しているかが重要なファクターになります。


ただ、残念ながら、大企業である阪急電鉄はコーポレートガバナンスやコンプライアンスは機能しておらず、いわんや宝塚歌劇団にたいしては放置してきていたとパワハラ合意の記者会見で自白しました。


宝塚歌劇団の俳優の管理を俳優どうしの自己管理に任せきりにしてきました。

ある方が云ってましたが『学校の部活と同じ』だと。私も何度か『PL学園野球と同じ』と云ってきました、


ある意味、宝塚歌劇団が『宝塚少女歌唱隊?』だったかな?初期の目的が子女の躾と、宝塚温泉の余興として始まった感じなので、過去において学校の部活的な緩さで『生徒』呼ばわりでも足りたと思います。


小林一三さん、米三さんの間はゆるくて、牧歌的で『阪急のお荷物』『お嬢様芸』と馬鹿にされても、お二人のご意向でゆるやかさを維持てきていたんだと思います。


時代は変わり赤字垂れ流しは許されない時代になり、収益性を追及されるようになりました。

そんななかで、私設ファンクラブやタニマチを通じたチケットノルマや配役の張り付けが横行し、公演の過密化が進みました。


しかし、世間は収益主義からSDGSに変わりました。

なのに宝塚歌劇団は、閉じられた世界で狂信的なファンとタニマチに寄って生きてきました。


タカラジェンヌの命を削り、消費して、狂信的ファンに限らず、宝塚を観る人すべてがタカラジェンヌに寄生してきました。。


だから、どんなに理由をつけても、宝塚を消費している人は、擁護する人も、宙組批判しながら他組を見る人も、気になって見に行く人も、タカラジェンヌの命を消費しているんだと感じました。


それは、収益主義を捨て去れない阪急阪神ホールディングス、阪急電鉄、宝塚歌劇団のカモにされているんだと感じました。


観に行くこと自体は個々人の事由なのでかまわないですが、年頃の娘を持つ親としては、そんな組織を信頼できないし、また私が祖父母から聞かされてきた『本物の良家の子女は芸能で食べていかない。他人様に芸をみせる生業は食い詰め者のすること』を思い合わせると、見る側はその食い詰めた人の足元をみて、その人たちを消費しているとしか思えないのです。


私は25年前にいろいろなものを見てきてファンを辞めました。

そして、それは正しかったと思っています。