暴力(かそれに類する力ずく?)を使って人をコントロールすることを体罰と呼ぶのかと思うけれども、自分は「しつけ」でも「教育」でも、生きてきた過程において、父にも母にも学校の先生にもそれを振るわれたことがない。

だから正直それにどんな効果があるのかわからない。

「話してもわからない」ときに行うものなんかな?違うの?

体罰を受けたこともふるったこともない身としては、僕のあんまり優秀ではない頭では、なんのためにするのかよくわからない。

殴られてやる気の出る人、すごいな。
僕は無理。

10代の頃から知的障害をもつ人たちに関わってきて、その発達を促す取り組みにもそれなりに携わってきた。

差別しているととらわれると困るのだけれど、「話してわかる」度合いは多分、「健常者」と呼ばれる一般の人たちに及ばないことが多いと思う。

しかし、自分の見てきた限りにおいて、「力ずく」が大切だという論議になったことはないと思う。

一人一人の発達の段階、理解の仕方、ものの感じ方などの特性を観察して、どういう方法を取れば、その人にあった発達の筋道が見えるのか、自ら発達したいという主体性を持って成長につながってゆくのか。

それを見つけ出すのが、我々の仕事であり、醍醐味だったと思う。

うまく行かないのは自分の未熟な関わり方のためだ。
「話してもわからない」のは、話し方や伝え方が未熟で適切でないから。
そう思ってきた。

体罰まではいかなくても、高圧的に関わる人なら見たけれど、うまくいっている、見習いたいと思ったことはない。
むしろ、安易にいう事をきかせてるように見えた。
楽してるやんって思ってた。
その人の前でだけ、怖いからいう事をきく。
それは成長とは違うように僕には見える。

体罰の是非を話せるような体験も目撃も僕にはないので、それを肯定する人には肯定するだけの根拠があるのやろなあと想像するしかできないから、「ダメだ!」という力も乏しいけれど、それでもそういう「力」を必要だと思った事はない。

命の危機と引き換えのリスクをもつ成長への取り組みなんて僕には怖くて試す事も出来ない。

「それはやり方が悪いだけ」といわれるのかもしれないけれど、それでも「やり方が悪いと死ぬかもしれない」ことは怖くて試せない。

人の成長は、もっと生き生きと充実して楽しいものであって欲しい。

まったく僕は的外れな事を感じているのかもしれないけどなとは思いながら、ニュースを見てるけど。



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色々な行き違いや諍いに遭遇したり、巻き込まれたりすることが続くと、全てを遮断して引きこもるか逃げ出すかしたくなる。

でも、多分それではいけないのだろう。

閉じないこと。

それはきっといつかどこかにつながるはず。



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今日は休み。

8時ごろ目覚めてそのまま枕元に何冊かあるうちの一冊、重松清さんの「Long,Long ago」を少し読んだ。
6つの短編のうちの一つ「永遠」。

知的障害を抱える弟をもつ姉のまわりで起こる出来事と心の動きを丁寧に描いた作品だった。

人生の半分以上を障害を持つ人たちの近くで過ごしてきたけれど、本当に何かを理解出来たと感じることはむつかしい。

「人は自分の宇宙から一生出ることはできない」というのは、僕の大好きな浦沢直樹さんの「MASTERキートン」の一説で、年を重ねるほどに思い知らされてきたけれど、だから少しでもつながったと思える時は本当に嬉しい。

60ページくらいのものだったので一気に読んだけれど、人の優しさを信じられるような心に染みる文だった。

改めて自分のしてきたことを振り返る気持ちにもなった。

毎日毎日いろいろなことが起こって気力を失うことも多い毎日だけれど、ここ、見失ってたなって思った。

重松さん。思い出させてくださってありがとうございます。

フリンジ3の第二話を見終わったので、ホンダディーラーに注文していたN-ONEのスタッドレスを取りに出かけよ。

偶然クリスマスイブに納車された奥さんの、えぬわん。いま980キロなんで今日で1000キロ超えます。

近頃の車は3000キロまでオイル交換しなくていいらしい。

NR-Aの時もそうやったかな。ついこの前のことなのに。








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