嫌な思いをしても悪口は言ってはダメ、なぜなら運気が下がるから、人格者としてなってないから、などと言ういかにも正しそうな道徳的な理由で社会的には悪口はタブーとされています。

けれども自然と感じてしまったことを平気なふりをしたり感じないふりをしたり肚にドンドン溜め込んで、精神的にも肉体的にも体調崩してそれを隠して生きている人はいっぱいいます。


そんな風に心身ともに自分を苦しめるのであれば、悪口は溜めずに出した方が人間として自然なのだと私は思います。私自身、自分の本質をごまかして生きていた時は、やはり嫌な思いをしても我慢ばかりしていました。


結果その反動で溜まっていたものが肌から吹き出て全身が赤く熟してただれました。肌は自分と言う存在と世界との境界線です。受け入れられることと受け入れられないことの境界線をくっきり引くことができなかったり、相手の意見に合わせてばかりや我慢してばかり、自分の本音を抑圧してばかりだと境界線が曖昧になっていくので、そういった意味でも押さえ込み溜め込んでいると肌にトラブルが出てくるのは当然の現象です。


また別のルートで我慢が吹き出すと暴言を吐くようにもなりました。


そうやって抑圧することをやめ溢れるだけ溢れさせているうちに徐々に気が澄んで、心が穏やかになっていき肌も綺麗になっていきました。それに自分が感じたことというのを素直に相手に伝えるようにも慣れました。


それまでは言いたくても伝えたくても伝えられなかったり、時間差を得て後からやっと伝えられると言うのが精一杯でした。そこの過程を経験しているから、どんなひどい言葉遣いだったとしても暴言を吐きたい時は吐いても良いと思うのです。


長い間、本音というのを言えずにいたら本音の周りに何枚もの厚い壁が鎧のようになっていき怒りが真っ先に溢れます。ため込んで我慢してきた分、気が狂わんばかりに暴言というのはひどくなります。


けれども棘のある言葉の鎧の裏には実は隠された原初の本音の部分というのが存在し、怒りを吐き出した最後の最後にポロリと見えるんです。


それはとても可愛いココロの声です。もっと見て欲しかった。わかって欲しかった。優しくして欲しかった。そばにいて欲しかった。愛されたかった。寂しかった。抱きしめてほしかった。ただ側にいてほしかった。という、そういう純粋な自分の本音です。


この本音のどこが我が儘なのでしょう?この望みはそんなたいそうなものでしょうか?違いますよね。


大事なのは最後に出てきたこの思いを一体誰に何を伝えたかったのか?を思い出すことです。


言いたくても言えなかった。何かや誰かがいて、傷つくほど自分には大事にしたい想いや感性があったということです。そんな風にとても繊細で柔らかで真っさらな自分がいた。そこの価値が見えてくると深い癒やしが起こります。