まずは昨日予告していた、日本の加害責任的な話です。


69回クルーズにはISと呼ばれる韓国の大学から交換留学で地球大学と言うプロジェクトに参加している学生や、普通のパッセンジャーとして乗っている韓国の人たちがいました。

船を降りる数日前だったんですが企画で、日韓しゃべり場というのが開かれました。
ここですごした時間は未だに私が消化しきれていない数少ない空間です。



日本は加害責任を軽視していて、被害に重きを置き過ぎていると思う。

別に私たちに謝ってほしいとかそういうことではない。
これからも近い国同士なのに歴史的なところで分かりあえないままなのはなんかイヤだ。

日本は被害者でもあるし、加害者でもあるのです。それの両方を理解していく必要があると思います。

でも今こうして日本人と韓国人が仲良くなれたように、たしかに日本を嫌う韓国人はいるけど少なくともそうじゃない人はたくさんいる。

お互いに歩み寄ることはできないのか。





まだ自分でもよく咀嚼できていない部分が多いんですが、ここに参加していたとき何とも言えない感情が湧いてきました。



あの戦争では日本が原爆や地上戦で傷ついたことをよく話されるし、歴史の授業でもよく教え込まれています。

でもあの戦争で日本はアジアの侵略をはじめとするさまざまな加害も行ってきました。


パールハーバーと呼ばれる真珠湾攻撃、朝鮮半島の植民地化ともいえる韓国併合、満州国建国やその他中国やアジア各国での侵略活動、朝鮮半島をはじめとするアジア各国の慰安婦問題

ざっと上げるとこんな感じでしょうか。他にもあるかもしれませんが私が今、詳しく知っているのはこれくらいです。


これらはたしかに日本軍がやっていたことでしょう。たくさんの人を殺し、傷つけてきました。これに関して、私たちが原爆や沖縄の地上戦について知っていくのと同じように学び、知る必要があるでしょう。


どちらかが一方的な話をしてもすれ違った道は交わることはないでしょう。
でも、互いのいい分を聞きあって、相手がどんな風に捉えていて、自分がどんなふうに捉えたのか、その違いをちゃんと共有して互いが歩み寄ればどうなるでしょうか。

きっと今よりもっと壁のない付き合いができるんじゃないでしょうか。


船で出会った韓国の人たちとこうやって話をしてから、もっと彼らと深く仲良くなれた気がした。

自分のこの実感は他の人にもあったのかどうか。それは分からないけど少なくとも私はそう感じました。
今日8月6日は65回目の広島原爆の日


船の乗船中にあったプロジェクトのひとつがおりづるプロジェクト。

ヒバクシャ地球一周証言の航海

というタイトルがついてますが、このプロジェクトは、被爆者の方に乗船していただき、寄港地や船内で証言活動をはじめとした様々な平和活動を行っていくものです。


私が乗った船で3回目となるおりづるプロジェクトには広島から9人の被爆者の方が乗船されました。




乗船直後におりづるパートナーになった私は、原爆や太平洋戦争に関して、一通りの知識はありました。でもこのプロジェクトで考えさせられたのはそういうところを越えて、


自分自身の人生に核というものがどう影響していくのか


自分と核問題がいかに密接であるかを考えさせられ、その危機感をたくさんの人にもってもらうにはどうしたらいいんだろう、ということをよく考えました。



65年前、直接被爆した方、翌日に入市被爆された方、胎内被爆された方、被爆2世…9人の方の被爆の状況は様々です。

でもどういう形であれ、自分の中を今も放射線が駆け巡り、いつ、それが自分の体に悪さをするか分からない、と言う状態で生活していらっしゃいます。

そんな被爆者の人たちにとって核問題はすごく身近なものであり、自分たちにも密接に関わる問題です。



しかし私たちはどうなのででょうか。私は今、佐賀県内に住んでいますが、下手すれば、私だって被ばくします。佐賀には原子力発電所があり、今、実際に稼働しています。


私は原発反対論者なので完全に原発を否定した言い方をしますがそこはご了承をww

原発は今までにも大小様々な事故を起こしています。小さな日本に今のように原発を増やしていったらいつか何か起きたときには日本人みんな被ばくです。


原爆や水爆だけが核じゃないんです。もちろん、核兵器の問題はあります。


私は船で、被爆者の人たちとの活動をしながら、65年前の話を聞いたりしているうちに原爆と自分が近くなっていきました。実際に被爆者の方ともすごくいろんな話をしたし、一緒に飲み会もしたし、被爆者の方、というより、私を孫のようにあたたかく受け入れてくれる人たちです。そんな自分のおじいちゃん、おばあちゃんが苦しんでいる、それを他人事だとは思えません。
そして核が自分のすぐそばにあることも実感し初めてと言えるほどの危機感を覚えました。


玄海原子力発電所ではプルサーマル計画、高レベル放射性廃棄物と言われる核のゴミのリサイクルを始めています。安全をうたったCMが現在も佐賀県内ではしょっちゅう流れています。

近くに住む者として、近くに家族や友人がいる身として、考えるものがあります。近隣の福岡だって、長崎だって玄海で事故が起きれば影響を受けます。


私は今まで、そして今回のピースボートでいろいろな経験をして、改めて思います。

これ以上、核で苦しむヒバクシャを増やしたくない!まして自分の大切な人をヒバクシャにしたくない。こう強く思いました。






でも自分が、自分の大切な人がヒバクシャになる。これって案外リアルな話だと思う…






もちろんあの戦争で傷ついたのは日本人だけじゃない。アジアの人たちでもあります。日本軍は朝鮮半島の人たちや中国の人たちに対して残虐なことを行っていました。

明日これについては詳しく書きたいと思います。
今回はコーケー村小学校について書きます


ピースボートの支援によって地雷除去、建設、運営が行われている小学校です。

揺れるジープに乗って移動したため、校門の撮影ができませんでした。
でも校門にはピースボートのロゴがついていました。


そこでは5歳から18歳が学んでいるそうです。

ジープでしか行けないようなまだ道なき道を走ってようやく着く場所、シェムリアップというアンコールワットなどがある大きな都市からはジープで3時間くらいかかる場所にコーケー村はあります。


もともと地雷の被害がとても多かった場所ですが、支援をきっかけに地雷を除去し、小学校が件背う、運営できるようになっています。

しかしまだまだ基本的なインフラが整っておらず、
道路の整備はもちろん、病院や保健所もまだありません。


もしここで病気になれば車で何時間もかけて都市まで道なき道を行かなければならないのです。


また学校は建設されてもその後に問題があるのです。

学校に通う事が出来たとしても卒業後の仕事が無く、進学する経済的余裕もありません。

家の手伝いをしている人がほとんどです。

学校ができてから大学に進学できた人は一人もいません。
遺跡でガイドの仕事をしている人がかろうじて一人いるそうです。


また学校では、教材が慢性的に不足、教員も足りません。また本などの教材がもらえたとしてもそれを保管する場所が無く、ネズミに食べられて使えなくなったりしています。

自分たちで運営資金を集めようにも何もできない、まだまだ支援に頼らずにはいられない、そういう状況でした。

今、ピースボートでは継続的な支援を行っていますが、支援金や物資についても様々な問題があるそうです。


支援金や物資がわたってきても、様々な会議にかけて支援金や物資の使い道を考えていくので、お金では最低7カ月、長ければそれ以上にかかってようやく支援金が自分たちのもとにやってくるのだそうです。



確かにコーケー村の環境は苦しい部分もあります。

でも、ここが私たちが生きていく場所だから。そう言って明るく暮らしている人たちがいました。

$MCが考えてしまった ~世界の下見に行ってみた~


$MCが考えてしまった ~世界の下見に行ってみた~

好きな勉強は何ですか?(2年生のクラス)

「クメール語(国語)」 「社会」 「理科」


将来何になりたいですか?(4年生のクラス)

「警察官」 「学校の先生」 「弁護士」




それぞれに今を楽しみ、夢を持って学校を、勉強を楽しんでいました。

$MCが考えてしまった ~世界の下見に行ってみた~





交流の中で彼らに質問はできたけど彼らから質問を聞けなくてそれがすごく心残りだけど、すごく楽しい時間でした。

時間がおしてしまって、本当にすぐにあまり遊ぶ間もなく次の地雷原に移動になってしまいましたが、本当にもう一度なんとかして行きたいところ第1位です。



$MCが考えてしまった ~世界の下見に行ってみた~



最初の寄港地は中国のアモイ(Xiamen)でした。

しかし早速のオーバーランドツアーで船を離脱です。

向かった先はカンボジア。



6日間の行程で、
キリングフィールドやツールスレーン博物館の訪問、見学
カンボジア地雷行動センター (CMAC)の訪問や地雷撤去作業現場見学
AAD アンコール障がい者協会での交流、ピースボートによる支援で建設、運営されているコーケー村小学校での交流、ソン・コサルさんとの対談などなどもりだくさんのツアーです。


個人的にも一番長い時間を過ごした場所だし、10年越しの夢のカンボジアなのですごく書きたいことがあります。なので分割しますww
もはやカンボジアはシリーズ化して書いていきます。

今日はアンコール障がい者協会 AAD についてのみ書きます

アンコール障がい者協会(以下AAD)はセムソワンタさんを中心にカンボジアの地雷被害者とその家族の自立した生活を支援している団体です。加入しているのは、地雷被害者とその家族約40人。


セムソワンタさんは1990年に軍に在籍していて、内戦の中で地雷を踏みました。そして自分が被害者になって初めて、地雷被害者の貧困という一連の流れを目の当たりにしました。

地雷の被害にあった後、障がい者となった人たちは、仕事に就くことができません。障がい者になった彼らには社会復帰のチャンスがないのです。


治療費もかかり、家族から見放されてしまう事すらあります。社会保障もしっかりしておらず、自立した生活をすることは困難な状況なのです


すると彼らの多くが物乞いをして生活していくのです。彼らをサポートする法律が無いわけではないのですがほとんど機能していません。



セムソワンタさんも例外ではなく、苦しい生活を強いられます。しかし、一人では社会復帰できなくても何人もの人で集まって声を上げれば変わるかもしれないと言う想いから、仲間を集めます。自分も含め、物乞いを減らしたい、そういう思いで仲間と協力して自立の道を探し始めました。


そして最初は本の販売から始まった小さな団体が、今では公式にNGOとしての認定を受け、補助金や支援金、販売による収入を使って活動しています。


現在行われている活動も多岐にわたります。手芸品を作って売るという小さな商売を行う事。楽器のスキルを身に付け、ストリートパフォーマンスをしたりCDを作ったりして音楽活動を行う事などなど、物乞いとしてではなく、貧困から抜け出すために協力し合って、解決の道を探っていくものです。

$MCが考えてしまった-木彫り

$MCが考えてしまった-楽器


また新たに生まれ続ける地雷被害者とその家族の精神的サポートも行っています。
地雷を踏んでしまったのは事実で手足や視力が無くなったのも事実なので、それをあまり考えないようにし、手足や視力を失った今からが人生のスタートと考えられるようにAADのメンバーが自ら不安定な彼らと対話をしていきます。



カンボジアを訪問するにあたり、私は小学生のころからずっと勉強してきたカンボジアの悲惨な歴史、辛い現状ばかりを詰め込んでいました。しかし、いつまでもそこにいては、いい方向には進みません。そのような辛いこともあったけど、そこから這いあがらないと、と頑張っている人たちがいました。暗い歴史を忘れることなく、でもそこにとらわれ続けない。彼らが失った手足や目は何をやっても戻ってこないのです。

ここで私は日本の現状に気付きます。今、日本では様々な苦しみから自殺を選ぶ人が増えています。でもAADで出会った人たちはとても強い心を持っていました。一度は本当に苦しい状況に追い込まれた人たちです。手足を、目を失い、家族も失い、仕事も失い、すべてを失った人たち。

それでも自分の可能性を信じ、自分を孤独な状況から抜け出させ、こうして新しい人生をスタートさせているのです。

今、日本では人とのつながりが希薄になっていると思います。孤独はとても辛いものです。誰からも思われない、愛されないと思ってしまう事、それほど辛いものはないと思います。

AADの人たちは今も貧しい生活を送っています。団体に対する支援はまだまだ必要な状態です。でもそこに暮らす彼らには手足はなくても笑顔がありました。苦しい生活だけど、孤独じゃないし、支え合って生きています。

$MCが考えてしまった

AADの彼らを見ていて感じた事


人間の心は思っているよりずっとずっと強い。


$MCが考えてしまった
昨日、8月2日、私たちに続き70回クルーズが地球一周へと出発しました


見送りには多数の69回乗船者がww
私も含め、地方に帰った人もまた東京に戻ってきていました


見送りながら変な心境。。。
自分たちの乗っていた船がジャックされて出発してしまってる感じ。



こうやってまわっていくのかってなんかしみじみ感じつつも
寂しい想いはいっぱいです


また乗りたいわ―って思う瞬間でした


出航見ると絶対に乗りたくなる…
これは過去乗船者になった今も変わらないものでした 笑





あ、旅の日記はまだまだ続きます。次は早速最初の寄港地でのオーバーランドツアーです!
横浜の大桟橋。

午後3時、出航曲が流れ、セレモニーが行われました。

毎回、出航のときには紙テープ祭り!




しかしこの69回クルーズ。4月の出航なのに…





吹雪





紙テープなんて投げられませんww

でもみんな最後の行ってきますを言いたいし、外で必死の行ってきます

見送りきてくれているたくさんの人たちも傘だけを持って見送ってくれていました
$MCが考えてしまった-福岡ピーセンのみんなもきてくれた!




前回の12月の出航を見送ったときよりも寒かったんじゃないかと思いました…





そんなこんなでさっそく天候にいじめられて私の地球一周が始まりました。
mixiの日記も合体させて、ブログにしました!


まぁ地球一周の旅も終わったことだし、出発前からずっと言われてたブログをようやく本格始動します



101日の旅の中でたくさんの事を経験しました。





カンボジアで地雷爆破のスイッチを押したり、


アデン湾で海賊に追っかけられたり、


パレスチナ難民キャンプにホームステイしたり、


エジプトの市場で「I love you---!」って50人に言われたり


パリの駅前で昼寝したり、


ヘルシンキの公園で昼寝したり、


ジャマイカの海に5時間入ってたり、





そして船の中ではここには挙げられないくらい毎日たくさんのイベント。

日付を言われればその日1日についてアツく語れるくらい濃い毎日でした



そこで学んだことをアウトプットしていきたいと思います

でも何からかいたらいいかわからないほどたくさんあるので日記を読み返しながら頑張りますww


改めて毎日書きためておいてよかったと感じる日記。。。

最後の1か月はちょっと短めの日が続いてるけどまぁ…船内新聞見返しながら頑張ります。