祈りをささげる一日  | ひなたぼっこ♪(^^)/

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こころがゆれるとき、成長のチャンス。
生きるって・・・大変です。
でも いまそれなりに幸せです。

今日は広島原爆の日 8時15分の黙とうでは いつも涙が流れます

父の実家は 爆心地から2キロのところ 

おばあちゃんは雑貨屋さんをしていたそうです おばさんはその日具合が悪く仕事を休んで家にいたとかで 二人とも奇跡的に家の中にいて命は助かりました

父の弟は大学生で その日具合が悪く 爆心地から1キロほどの日赤病院行きの電車に乗っていたそうです。

 日赤病院の一つ手前の停車場でないところで数人の人が降りたので おじさんも手前で降りたそうです そして日赤病院に入ったところで被ばく しばらく意識不明だったそうです

もし 降りなかったら 黒こげになっていた・・と

おじさんと おばあちゃんと 高校時代の私によく似ていたというおばさんは 広島の知り合いのところで避難生活をしていました

 お世話になっていたそこの家の息子さんと結婚しました(結婚しないと そこにいられないので仕方なく結婚した、とおじさんが話していました。苦労を掛けたと父も話していました

赤ちゃんが生まれて 1年もたたないうちに 原爆症で亡くなりました

その時生まれたいとこの居場所がずっとわからなかったのですが、おじさんの尽力で2016年に呉でお孫さんもいて幸せに暮らしていることが分かり 広島で会うことができました

おばあちゃんも 数年後原爆症でなくなったそうです

父は戦時中は 朝鮮の税関ではたらいていたそうです。 終戦直前は山口の部隊で人間魚雷(回天)の訓練をうけていたそうですが、終戦でいかなくてすんだそうです

父からは戦争中の話は 一切聞いたことがありません

父を探して山口の部隊まで行ったおじさんは 部隊での人間魚雷の話を聞き 父の生還はあきらめていたそうです

父の兄は 一等航海士で海軍に配属されていたとか 

私が高校3年生の入院していた時に がんで亡くなりました 

父は 原爆投下後 2か月くらいたったあと リヤカーに荷物 物資をたくさん積んで 避難先に帰ってきたそうです

おじさんは 終戦後上京し英語の教師になり 数年後渡米し結婚し アメリカに帰化し今に至っています 原爆手帳を持っているので 数年ごとに帰国し手続きをしています

被ばくが原因と思われるがんにもかかりましたが、死線を超えて90歳で5人の孫に恵まれ暮らしています 

おじさんは、ずっと被ばく体験を話せずにいましたが 20年くらい前から 請われて体験を話す機会が増えているそうです

原爆の記録として 平和公園の資料館におじさんの体験記録が保管されているそうです

  似島をはじめ 広島湾の近くの島々に ご遺体が集められたとか 

おじさんの記録には なまなましい状況が記されていました

母は呉の実家で、おばあちゃんと一緒に防空壕を掘っていていて、きのこ雲をみたそうです

 厳しい時代を生き抜いてきた両親やおじさん世代のみなさん 精神力の強さを感じます

 

 平和な 今を過ごせること  ありがたいとしみじみと思います

 

今日の朝日 不思議な光 祈りの光でしょうか

車は走っていませんでした下三角