私たち大人は、なぜこの歳まで

自死を選ばずに生きてこられたのか。


そんなことをふと考えました。



どのくらい本気かどうかは

人それぞれだけど

思い返せば人生で、

もう死んでしまおう。

と思ったことは誰でも1度や2度あるんだと思う



ただ、一般的に大人と言われる歳になるまで

生きてこられたのは、死の選択を思いとどまる何かがあったはず。

それは一体なんだったのか思い出したいと思った。人それぞれあるんだろうから可能な限りその何かを我が子達には伝えて、同じ様に踏みとどまれるそのきっかけを少しでも作っておきたいと思った。



まず、私に命は大切であるということを教えたくれたのは、母だったと思う。

小学校低学年の時に、戦争について教えてくれたのが母で、たくさんの命が自分の意思とは関係なく奪われ、人々は食べるものも着るものもなく、苦しんだ時代が昔あった。だから生きたくても生きられなかった人に思いを馳せた。

大人になっても原爆資料館に行きたいと思ったり、戦争のドラマを見て衝撃を受けたりして、自分の命は誰によっても奪われるべきでないことを自分の軸として当たり前に思っている。





人でもなく、自死でもないけど、身近な存在である愛犬が病気で死んだ時は、私自身が思ってもみないほど苦しみ、今までみてきた景色が一変し、物事が手に付かなくなり、命って本当になくなったら帰ってこないんだと実感したし、周りにとって死は苦しみしかないことを知った。



そうやって私は

命が大切であることを学んできた。

死にたいと思った時は、

生きたくても生きられなかった人のことや、犬が死んだ時の家族の反応を思い返したし、自分の周りの大好きな人たちがどうなるか想像した。

生きるとか死ぬとかで、心を揺さぶられる子供の頃の経験の数々が、私をこの年まで生かしてくれたんだと思っている。




たとえば今

子供に残酷な動物の死を見せて

食べ物を大事にしてほしいという活動家の行動は、やり過ぎだとか批判的な風潮があるけど

私は100%悪だとは考えられない。


子供のうちに、できる限り

命というものに触れておくことが

その後の人生に大きく影響するから




生まれること、

死ぬこと、

それを肌で感じて

嬉しいとか悲しいとか、かわいそうだとか、怖い、汚い、好き、嫌い、辛いとか、幸せとか

たくさんの感情を抱いたり

夜眠れなくなったり

眠れる安心感を感じたり

朝目覚めてまたなんでもない1日を始めることのだるさを感じる日もあれば、なんでもない1日がなんと美しいものかと思える日もある。




子供の頃から

それらがちょっとずつ積み重なって

自分の命を大切に思う

理由になる。





その体験が少なければ、

そりゃ生きる選択をとるには

この世は苦しいことが多すぎる。




去年の春、仕事に行こうと電車を待っていたとき

ふと顔を上げたら、天井に死んだ人がぶら下がっていた。

電車に飛び込んだ人だった。



それはそれは動揺という言葉では片づけられないほど震え、気持ちが揺さぶられ、3日はよく眠れなかった。

あの人がどんな人なのかわからないけど、

主人に言われた

「飛び込んじゃう人って、もう既に鬱状態で自分の意思ではなく足が勝手に踏み外しちゃうってこともあるみたいだよ。」

私はその言葉を信じた。

あの人が、苦しい苦しいと思いながら飛び込んだのではなく、フラッと身体が勝手に動いてしまって気が付いたら死んでいた。

なるべく痛みなく、亡くなっていってくれてたらと思うしか、そばで見た私にはこの気持ちを処理する方法がなかったので。




全く知らない他人の死にも、ここまで

気持ちを動かされるのだから

自死を選んだ人の母親の気持ちを考えたら

私は、はやく我が子に生きること、死ぬことを伝えて心を揺さぶらなければと思った。



そしていつか訪れる子供の

苦しみの日に

私の「大好きだよ」の声が

届く様に、毎日あなたが大切だということを届け続けたい。