4.名前(後半)
その日は、そろそろ梅雨に入ろうかという頃だったと思う。
俺は外回りから帰ってきて、廊下をぼーっと歩いていた。……これから山のように報告書を書かねばならない。報告書書きは俺の最も苦手とする仕事だった。過ぎたことをいちいち思い返して、しかもそれを文章にするなんて全く性に合わない。ああ、憂鬱だ……。
「廣瀬!」
唐突に大声が後ろから降りかかってきて、俺はびくっとして、立ち止まり後ろを向いた。
廊下を歩いていた社員がちょっと驚いて振り返るくらいの大声を出した主は、しかし全然普通の声でも聞こえる距離に立っていた。
美鈴さんだった。
美鈴さんは場違いにでかい声で続けた。
「廣瀬っ、あっ、あのさ、昨日これ忘れたでしょ」
美鈴さんはそう言うなり、ずいっと握っていた手を突き出した。その手にはボールペンが握られていた。うちの会社のロゴが入った、ノック式のよくある安いやつ。
あ、そうか。昨日遊びに行ったときに、前に行って美味しかった蕎麦屋の地図を書いてそのまま置いてきたんだ。
「あ、そうですね。……ありがとうございます」
でも、別にこんなボールペンなんかどこにだって転がってるし、俺もたぶん誰かの机にあったのを使ってそのままポケットに差しちゃってたんだ。こんなものをわざわざ返しに来てくれたのか……。
正直俺は、手渡されたそのボールペンには欠片ほどの意識もいっていなかった。
……名前を呼ばれた。
やっと、名前、呼んでくれた。
恥ずかしい話だが、その瞬間俺はちょっと胸が詰まってしまったのだ。
俺はもうほとんど無意識で、言葉を返していた。
「……やっと覚えてくれたんですね」
ん?と美鈴さんが訝しげな顔をする。……僕の名前。と俺は続けた。
途端、美鈴さんの頬の端のほうにちょっと赤みが差した。
「もちろん覚えてるよ。とっくに」
いや、嘘だろ。絶対嘘。
「……嘘でしょ?」
内心そう思った言葉が、思った瞬間口からぽろっと出て、俺は自分でも驚いた。
しまった、と思ったが、次の瞬間眉を寄せた美鈴さんの表情に俺は吹き出しそうになった。……不本意そうに尖らせた口がひょっとこみたいだったのだ。
「嘘じゃないわよ。名前くらい覚えてるわよ失礼な。フルネームで言えるわよ、廣瀬渉、ほらっ」
その物言いに、今度こそ俺は吹き出した。……おかしくて我慢できないなんて、いつ以来だ?
何よ、と頬をふくらませる美鈴さんを前に、すみません、と笑いを噛み殺しながら、……廣瀬渉、と発音されたその声が、俺の内面をざらっと変な感じに擦ったのに俺は気付いていた。
「あ、じゃあ名前を覚えてくれた記念で、昨日の蕎麦屋でも行きます?」
言ってしまってからハッとする。
……思わず昼飯なんかに誘ってしまった……。
美鈴さんは何それ、と笑ったが、でも一瞬躊躇うような光が眼に走ったのを、俺は見逃さなかった。
「高坂さんにも声かけますよ」
すかさず俺が引いた線に、少しだけ、ほっとしたような光が美鈴さんの眼に走る。美鈴さんは笑顔のまま「行く行く」と頷いた。
……その眼の光に、ちりっとどこかが痛んだのにも、俺は気付いていた。
この日が、本当の意味での始まりだったのかな、とも少し思う。
美鈴さんはいつもこんなふうに唐突に俺の前に現れて、唐突に俺の名前を呼ぶ。俺はその度に一喜一憂して、その度にその人物への思い入れが強くなる……それこそ刷り込みみたいに。
何だか騙されたようなその感覚は、今思えば初めて名前を呼ばれて感動してしまったあの日がターニングポイントだったのだろう。そんなことで思わず涙が出そうになった自分は、はっきり言ってドMだと認めざるを得ない。誰にも言えないけど。
あの日、実は美鈴さんも初めて俺に話しかけるのにやたら緊張してしまっていたという話を本人から聞けるのは、ずっとずっと後のことだ。
★★
とりあえず、拍手お礼で連載していた分はここまでです。
もうちょっと書こうかなー…と、頭を捻っているところです。
「廣瀬視点『うでまくら』」にもちょろっとリクエストいただきまして、
あの長い話を逐一廣瀬視点から追うのは大変だけど、
本編とかぶらない部分がメインだったら少し書けるかなー…と考え中。
うまいことできるかなあ。
いずれにせよもうちょっと先と思います(笑)
こちらも読んでいただいてありがとうございました。