富山には立山がある。 | ことのはつづり

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ここんとこ山方面への取材が立て続けにありました。

黒部、五箇山、上市、氷見の山奥…それから、あとどこだっけ?(…思い出せない)、短いスパンで富山県内の色んな山エリアを訪れた。

それに加えて、プライベートでも親不知(海&山)とか長野の安曇野、白馬あたりとか、遊びに行ったりしてたので、なんか山、山、山ー!なこの1ヶ月余り。

そして昨日の取材は、立山山麓でありました。
 
いろいろ行ったけど、山エリア取材強化月間(というわけではなかったんだけどw)の掉尾を飾ったのが富山の母体そのものである立山だったのが、すごく締まった感じがして良かった。



で、昨日。

目的の立山山麓のほうに向かって圧倒的な大自然を見ながらくねくね山道を運転しながら、本当になんとも言えない神聖な気持ちになっていくのを感じました。
立山信仰が生まれた場所。
山の中につくられた古い神社をいくつも通り過ぎる。
こんな気持ちになるのは、昔の人も現在の人もきっと同じなんだろうなと。

そして運転しながら、
やっぱ立山にはかなわねーや。
すごいな。
と何度もつぶやいていました。


立山はもうすべてが凄すぎて、山に対して「畏れ」を感じるのです。それはここ最近訪れたどの山でも、感じることのなかったものでした。

氷見の里山在住の方が、ここは山だけど人間も生活できるちょうどいい山だ、例えば立山なんかは色々と凄すぎて手が出せない感じがするしねーというような内容のことを笑い混じりに話しておられたけど、
本当にその通り。


立山連峰は富山にいればどこからでも見えるし、そういうところからも、富山ってところは立山連峰に守られて、というか立山連峰の麓に存在してきたんだなと、腹の底から、思ったのであります。

それが、そんじょそこらの山ではなくて、「立山だから」すごいんだと。

つくばに住んでいた時、こんなふうに、どこからでも「筑波山」が見えたんだけど、でも、筑波山はこんな感じじゃなかったんだよねぇ。もっと身近で親しみやすいような印象だった。
やっぱりスケールも何もかもが、全然違うんだよね。(個人的には筑波山ファンなので、筑波山のほうが好きなんですけどw)


立山連邦。

正直、こんな凄い山々を、ずーっとどこにいても幼い頃からあたりまえに感じながら生活してるんだから、それがずーっと昔々から続いてきてるんだから、富山県民は必然的にこういう県民性になるよね。と思ったんです。

こんな畏れの象徴のような、人間なんて到底かなわない、途方にくれるような大自然と常に寄り添ってきた富山の人々。

そりゃ真面目だよな。謙虚で奥ゆかしくて、いやいや、私たちなんて…と表立って表現したり目立つことが苦手になるよな。何かと恥らうよね。w


でも、ものすごい内に秘めた芯の強さ、粘り強さ、志しの強さが、富山の人にはある。
富山県民は強い。パッと一攫千金のような華やかなことは苦手だけど、100年も200年もかけて一つのことを貫くようなそんな本当の強さがある。人だけじゃなくて、文化とか産業とか、アートとか、よく見るとそんな富山ならではの特徴がいたるところに散りばめられてるように思う。

昨日は取材の行き帰りに、そんなことを考えていた。

そしてそんな立山に魅せられて、住み着き生活している人々にはなんだか途方もなく愛おしい気持ちが、それから、そこに生まれたから仕方ないのだと、宿命のように脈々と受け継ぎ住み続けている人々には、それも到底自分には出来ない尊い生き方だと、尊敬の気持ちが。それぞれにふつふつと、湧いてきたのでした。

立山は凄い。
やっぱ立山にはかなわねーや。



追記

幼い頃から立山には、何度もなんどもなんども遊びに行ってたはずなのに、こんな事を感じたのは初めてだったなー。
それこそ、「あたりまえ」になってて気づかずに通り過ぎていた感覚だったんだろうなぁ。