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みなさんこんにちは、
明るく楽しい横浜市『福田音楽教室』ピアノ講師・音楽療法士の福田りえです。


今回はクラシック音楽に関する雑学クイズをお届けします。全9問中、何問答えられるでしょうか?

クイズの答えを見るには、各クイズのヒントの下にある「答え[開く]」をタップ(クリック)してね。

それでは早速いってみましょう!


※この記事は2010年8月から9月にかけて公開した複数の記事を、加筆・編集してひとつにまとめたものです。

※IE11など一部のブラウザでは最初から答えが開いています。



音楽クイズ No.01:ワルツ王と言えば誰でしょう?


[難易度:★☆☆☆☆]

クラシック音楽の世界には、"二つ名"を持つ音楽家がたくさんいます。

たとえば…

  • J.S.バッハ:音楽の父

  • ハイドン:交響曲の父

  • モーツァルト:神童

  • ベートーヴェン:楽聖

  • ショパン:ピアノの詩人

  • リスト:ピアノの魔術師

  • ワーグナー:楽劇王

  • ヴェルディ:オペラ王

…などなど。

では、"ワルツ王"といえば誰でしょう?

💡ヒント
  • 生涯の多くをウィンナ・ワルツの作曲に捧げた
  • 代表作は『美しく青きドナウ』、オペレッタ『こうもり』など
  • ニューイヤーコンサートでお馴染みの作曲家

答え
ヨハン・シュトラウス2世

ヨハン・シュトラウス2世の写真
ヨハン・シュトラウス2世
Johann Strauss II.
1825 - 1899


"ワルツ王"のほかにも"ウィーンの太陽"や、"ウィーンのもう一人の皇帝"などとも呼ばれ、絶大な人気を誇ったヨハン・シュトラウス2世は、「十大ワルツ」と呼ばれる代表作を含む、100以上のワルツ曲を残しました。

またポルカやオペレッタでも多くの名曲を残し、特に『こうもり』はウィンナ・オペレッタの代表曲ともいわれます。さらにポルカ・マズルカを創り出した功績は大きく、弟ヨーゼフは同ジャンルで高く評価されています。

▼同じく"ワルツ王"と呼ばれるアンドレ・リュウによる『美しく青きドナウ』
The Beautiful Blue Danube - André Rieu | YouTube

そんなワルツ王ヨハン・シュトラウス2世ですが、自身はワルツを踊ることが大の苦手だったらしく、決して踊ろうとはしなかったといいますから、世の中わからないものですよね。




音楽クイズ No.02:人生の1/3を旅していた作曲家は?


[難易度:★★☆☆☆]

作曲家というと、険しい表情でピアノの前に座り、髪を掻きむしりながら楽譜にペンを走らせる……そんなイメージ、ありませんか? それはたぶんベートーヴェンのイメージ(笑)かもしれません。

そんな引きこもったイメージとは対称的に、人生の1/3を旅に費やした作曲家もいます。みなさんよくご存知の、あの人です。わかりますか?

💡ヒント
  • 神童とよばれた天才
  • 35歳での謎多き夭折

答え
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト

モーツァルトの肖像画
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
Wolfgang Amadeus Mozart
1756 - 1791


ザルツブルクに生まれた神童モーツァルトは、幼少の頃から父レオポルトに連れられ、演奏と就職のためヨーロッパ各地を旅して回ります。

パリ、ロンドン、ウィーン。イタリアはミラノ、ボローニャ、ナポリ、ローマ。ドイツはベルリン、ミュンヘン、マンハイム。何度かの大旅行と、ザルツブルクへの帰郷を経て、最終的にウィーンに定住しました。

その旅の合計は3,703日(約10年)で、短い人生の33%を占めます。累算の移動距離は約17,820kmで地球の赤道の45%にも及び、まだ鉄道も飛行機もない当時としては、驚異的な旅程です(下記リンク先参照)。

しかも、そのほとんどは馬車に揺られての旅路。う~ん、おしり大丈夫?

長い旅路の合間に900曲にもおよぶ楽曲を書き残したのだと考えると、その尋常でない才能に感嘆せずにはいられません。

そんなモーツァルトの死因については毒殺説などが有名ですが、幼少期からの馬車移動によるリューマチ疾患も、原因のひとつとして考えられているそうです。

▼モーツァルトの旅については、次のリンク先が参考になります。
大阪大学/神戸大学非常勤講師 野澤和男『「旅するモーツァルト」の旅の意義』(PDF)




音楽クイズ No.03:多才なマルチ人間だった作曲家は?


[難易度:★★★☆☆]

「天は二物を与えず」ということわざがありますが、世の中にはいくつもの豊かな才能を併せ持っている、"マルチ人間"もいますよね。

たとえば、ミュージシャンの星野源さんは、俳優や声優としても活躍しながら文筆家としての面もあります。

クラシック音楽の世界でも、作曲家として名を成しつつも、別の肩書をたくさん持っていた人がいますが、果たして誰でしょう?

💡ヒント
  • 1835年~1921年 フランス
  • 代表作品は組曲『動物の謝肉祭』

答え
シャルル・カミーユ・サン=サーンス

サン=サーンスの写真
シャルル・カミーユ・サン=サーンス
Charles Camille Saint-Saëns
1835 - 1921


作曲家としてはもちろんピアニストとしても超一流で、生涯に渡って演奏活動で世界を飛び回っています。最高のオルガン奏者でもあり、手厳しい音楽評論家として著書をしたため、自らタクトを振る指揮者でもあります。

音楽以外でも、数学や生物学など科学者・哲学者であり、詩人で小説家、美術家、天文学や占星術に精通し、フランス古典やラテン語を理解し、自然保護の活動まで。まさにマルチ人間ですよね。

▼サン=サーンスの代表曲、組曲『動物の謝肉祭』
Camille Saint-Saëns - Le Carnaval des animaux, The Carnival Of The Animals, 動物の謝肉祭, 동물의 사육제 | YouTube

多彩な才能を持つサン=サーンスですが、なんというか……性格はあまりよろしくなかったようで、辛辣で相手に配慮せず、思ったことをストレートに言い放ったエピソードが残されています。

▼サン=サーンスの著作
『音楽の十字街に立つ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション




音楽クイズ No.04:視力を失った音楽家は?


[難易度:★★★☆☆]

あのベートーヴェンは20代後半に聴力を失い、作曲活動に大変苦労したといいます。その一方、視力を著しく低下、あるいは完全に失ってしまった音楽家も少なからずいます。あなたは何人答えられますか?

💡ヒント
  1. 400もの曲を残し、近代ギターの父と呼ばれるスペインの音楽家
  2. 音楽の父として誰もがその名を知っている、ドイツの偉大な音楽家
  3. ドイツからイギリスに渡って活躍した、バロックの巨匠と呼ばれる音楽家

答え
古代・中世から近現代まで、あるいは洋の東西を含めると、幾人もの音楽家の名前があがると思いますが、ここでは主に上記ヒントに記した3名をご紹介します。


1.フランシスコ・タレガ


ギターを弾くフランシスコ・タレガの写真
フランシスコ・タレガ
Francisco Tárrega
1852 - 1909


両親ともに共働きの、とても貧しい家庭に生まれたタレガ。幼いころ、泣き止まないことに腹を立てたベビーシッターによって用水路に投げ入れられ、そのときのダメージによって著しく視力を低下させたといいます。

将来失明しても食べていけるようにと、両親によって音楽の道へと進み、やがて近代ギターの父と呼ばれるほどに。ロマン派音楽とスペイン民族音楽を融合させ、トレモロ奏法などの高度な技巧で装飾した曲は情緒的で、今も多くの人に愛されています。

代表曲『アルハンブラの思い出』の明るくもどこか哀しげな旋律は、じわっと心に染み込んでくるようです。

Recuerdos de la Alhambra | YouTube


2.ヨハン・セバスチャン・バッハ


バッハの肖像画
ヨハン・ゼバスティアン・バッハ
Johann Sebastian Bach
1685 - 1750


あらためて説明する必要もないほど偉大なバッハですが、その最晩年に視力を失います。脳卒中で倒れたときには、以前より悪かった視力も悪化しており、英国人眼科医ジョン・テイラーによって、2度の手術を受けることに。

手術は成功したとするテイラーですが実際は失敗で、後遺症と薬物治療により衰弱し、1750年7月28日、65歳でこの世を去ってしまいます。

▼バッハ『心と口と行いと生活で』より第10曲 「主よ、人の望みの喜びよ」
J S Bach Jesus bleibet meine Freude BWV 147 Ton Koopman 480p | YouTube

まだ少年のころ、長兄ヨハン・クリストフ・バッハが所蔵し、閲覧を禁じられていた楽譜の数々を、深夜こっそり月明かりの下で写筆し続けたのが視力悪化の遠因となった、とも言われています(白内障や糖尿病が原因だとする説もあります)。


3.ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル


ヘンデルの肖像画
ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル
Georg Friedrich Händel
1685 - 1759


バッハが音楽の父ならば、(日本でだけ)音楽の母と呼ばれるバロックの巨匠ヘンデルもまた、晩年に視力の低下に悩まされています。

同時代に生きたも関わらず一度も会うことがなかった両者ですが、バッハが世を去った翌1951年、ヘンデルは左目の、続いて右目の視力を悪化させ、まもなく完全に視力を失ってしまいます。視力悪化の原因は、緑内障だというのが通説です。

その後1758年、英国人眼科医ジョン・テイラー(!)による手術を受けますが、これもバッハ同様に失敗。翌年、帰らぬ人となりました。

▼宮廷音楽感満載!ヘンデル『王宮の花火の音楽』第4曲「歓喜」
Music For The Royal Fireworks, HWV 351 - La Réjouissance | YouTube

ちなみにバッハとヘンデルの手術を失敗させたジョン・テイラーですが、イギリス初の眼科医とされ、王室の侍医でもあります。しかし治療の困難さと自己の手腕を大袈裟に喧伝し、それでいて左目しか手術しなかったとか。そして彼も晩年に失明し、生涯を終えたそうです。




音楽クイズ No.05:演奏時間の最も長い曲は?


[難易度:★★★★☆]

長い人類の歴史の中には巨大な遺跡や建造物が登場しているように、クラシック音楽の世界にも「最も長い曲」というものが存在しています。

その中から最長だと考えられているものを3曲ピックアップ。誰の何という曲だかわかりますか?

💡ヒント
  1. 1曲目は交響曲の作品
  2. 2曲目は4部作のオペラ作品
  3. 3曲目は終わりが無い(かもしれない)曲

答え
演奏時間が最も長いと考えられている楽曲は次の通りです。


1.交響曲『Victory at Sea(海の勝利)』リチャード・ロジャース


主にミュージカルの作曲で数々の賞を総ナメにした、アメリカの作曲家リチャード・ロジャースによる交響曲。演奏時間は約13時間もあります。

しかしこの長大な交響曲は、1952年から1953年にかけて米NBCで放送された、同名のテレビ・ドキュメンタリー・シリーズ『Victory at Sea』のために編曲されたもの。番組は1話30分で全26回あり(計13時間)、そのため尋常ではない長さとなっています。

"Victory at Sea" (1952) - Suite - Richard Rodgers | YouTube

上述の通りテレビ番組のために編曲されたものですので、単体の楽曲としてはイギリスの作曲家ハヴァーガル・ブライアンの、交響曲第1番ニ短調『ゴシック(The Gothic)』の演奏時間106分が最長とされ、また同時に最大編成の楽曲ともされています。

Symphony No.1 in D minor ''Gothic'' - Havergal Brian | YouTube


2.『ニーベルングの指環』リヒャルト・ワーグナー


楽劇王ワーグナーが26年の歳月をかけて完成させた超大作楽劇(オペラ)。4部作からなる本作は約15時間もの上演時間となるため、通常4日間にわけて上演されます(日本では1年1作の4年で完結となることが多い)。

  • 序夜:『ラインの黄金』(2時間40分)
  • 第1日:『ワルキューレ』(3時間50分)
  • 第2日:『ジークフリート』(4時間)
  • 第3日:『神々の黄昏』(4時間30分)
※上記の演奏時間は目安

下記の動画は第1日『ワルキューレ』第3幕より「ワルキューレの騎行(Der Ritt der Walkueren)」。


Die Walküre [Valkyrie] Act III, Scene 1 (14/18) [Ride of the Valkyries] engl./dt | YouTube


3.『常動曲』ヨハン・シュトラウス2世


ワルツ王ヨハン・シュトラウス2世が作曲した『常動曲 op.257』は、別名「音楽の冗談」とも呼ばれ、楽譜の一番最後に「あとはご自由に」と書かれており、また最初から繰り返すのか、フェードアウトさせるのか、どうするのかは指揮者に委ねられています。

J・シュトラウス - 常動曲 Op.257 カラヤン ウィーンフィル | YouTube

そもそも常動曲(無窮動むきゅうどうとも)というのは、一定の音符の流れが楽曲全体に渡って繰り返される手法のことを指しますが、一曲まるごと常動曲となると、何度でも繰り返し演奏できるように作曲されています。上記の『常動曲 op.257』のように、指揮者や楽団にその気さえあれば、無限に演奏を続けることだってできるのです。

ただ通常は、「あとはこれの繰り返しです」と、指揮者が聴衆に告げることで終わることが多いようです。




音楽クイズ No.06:世界で一番短い曲は?


[難易度:★★★☆☆]

世界一長い曲があれば、その反対に世界一短い曲もあります。ここでも3曲をピックアップ。さて、わかりますか?

💡ヒント
  1. 1曲目はショパンの曲です
  2. 2曲目はモーツァルトの曲です
  3. 3曲目は……曲っていうんだろうか?

答え
世界一短い曲3つを、長い方(?)から見ていきます。


1.『前奏曲 第7番 イ長調 Op.28-7』ショパン


ショパンによる『24の前奏曲』の中の一曲で、約40秒~1分ほどのピアノ曲です。日本では太田胃散のCM曲として、知っている人も多いのではないでしょうか。

ショパン: 前奏曲 第7番 イ長調 op.28 ポリーニ 1974 | YouTube


2.『クラヴィーアのためのアレグロ ハ長調 K.1b』モーツァルト


モーツァルトが作曲をはじめた1761年、なんと5歳頃の作品で、約11秒程度のピアノ曲です。短いながらも小気味よい音色に、神童の片鱗が伺えますよね。


W. A. Mozart - KV 1b - Allegro for keyboard in C major | YouTube


3.『0分00秒(0′00″)』ジョン・ミルトン・ケージ・ジュニア


アメリカ出身の音楽家で思想家でもある、ジョン・ケージの代表曲『4分33秒(4'33")』の第二番とされているのが、この『0分00秒(0′00″)』です。初演は1962年、東京の草月ホールで、ケージ自身によって演奏されました。

演奏されたといっても、自分の眼鏡や万年筆など身の回りの物に小さなマイクをつけて作曲をおこない、そのときに出る音を会場に響かせたといいますから、一般的な意味での演奏でも器楽でもない、まさに前衛芸術としての作品です。

0′00″ | 2009 | John Cage 100th Anniv. Countdown Event | YouTube




音楽クイズ No.07:スウィーツの名前になったオペラ歌手は?


[難易度:★★★★☆]

偉業によって後世にその名が残るのは素晴らしいことですが、中には別の物や概念の名称として語り継がれるケースもあります。

初代ローマ皇帝アウグストゥスが英語の8月(August)の由来となったように、音楽の世界にもスウィーツの名として、人々に愛され続けているオペラ歌手がいます。果たしてそれは誰でしょう?

💡ヒント
  • 1861~1931年 オーストラリア出身
  • 世界的ソプラノ歌手
  • ワグナーの歌劇『ローエングリン』

答え
ネリー・メルバ

ネリー・メルバの写真
ネリー・メルバ
Nellie Melba
1861 - 1931


メルボルンで声楽を学び、その後パリやベルギー、ロンドンでソプラノ歌手として活躍。またニューヨークでも大成功をおさめました。

1892年のロンドン公演では、サヴォイ・ホテルの料理長オーギュスト・エスコフィエを招待。そのお礼として創作されたのが、ピーチ・メルバという名のスウィーツです。

そのスウィーツを大変気に入ったメルバが名前を尋ねると、「ピーチ・メルバと呼ばせて頂ければ光栄です」と、料理長エスコフィエは答えたといいます。

メルバが演じたワグナーの歌劇『ローエングリン』に登場する白鳥をイメージし、グラスにバニラ・アイスクリームを盛り、その上に半分に割ったバニラ・シロップ漬けの桃をのせ、ラズベリー・ソースとスライス・アーモンドをかけたピーチ・メルバ。

アレンジメニューもたくさんあって、どれも甘くて美味しそう!
ピーチ・メルバの画像検索結果

彼女の名を冠した食べ物は他にも、薄いパンをカリカリに焼いた「メルバトースト」、トマトに鶏肉やキノコを詰めた「メルバガーニチャー」、ラズベリーとアカスグリの甘いピューレ「メルバソース」などが知られています。

オーストラリアの国民的歌手としての人気が伺えますよね。

▼ネリー・メルバの歌声
Wagner - Lohengrin - Elsa's dream - Nellie Melba (1910) | YouTube




音楽クイズ No.08:一国の首相にまでなった音楽家は?


[難易度:★★★★☆]

音楽家として成功するだけでも大変なことですが、世界には政治家として一国の首相となった人もいます。戦乱の時代、歴史のうねりに翻弄される国に生まれながらも、ピアニストとして、政治家として、祖国を愛し続けたその人とは?

💡ヒント
  • 1860~1941年 ポーランド生まれ
  • ピアニスト・作曲家

答え
イグナツ・ヤン・パデレフスキ

ピアノを弾くパデレフスキの写真
イグナツ・ヤン・パデレフスキ
Ignacy Jan Paderewski
1860 - 1941


ポーランドのクリロフカに生まれたパデレフスキは、27歳でワルシャワ音楽院を卒業。ピアニストとしてデビューし成功を収めます。

さらにパリ・ロンドン・ベルリン・アメリカに演奏旅行をし、またまた大成功。世界的な名声を手に入れ、母校ワルシャワ音楽院の院長に就任。

アメリカに渡って農場を買ったりしますが、第一次世界大戦が勃発。祖国を救うために救済コンサートを精力的に開催します。

このような功績が認められ、1918年にポーランドのアメリカ駐在大使に任命。翌1919年、共和国となったポーランドの初代首相に選ばれるのです。

ですが、わずか1年で退任してピアニストとして活動再開。祖国の救済コンサートを続けるのですが、今度は第二次世界大戦が勃発。亡くなる前年の1940年、パリ(後にロンドン)に組織されたポーランド亡命政府でも、指導的役割を担います。

愛国心がこんなに強かったパデレフスキですが、ポーランドでなく異国ニューヨークの地で亡くなっているんです。さぞかし、残念だったことでしょうね。

世界的な名声と深い愛国心で、国民のみならず世界から愛された音楽家パデレフスキ。国に、世界に、音楽で貢献されたスゴイ人なのです。

▼パデレフスキの演奏音源
Ignacy Jan Paderewski plays Chopin Ballade No. 4 in F minor Op. 52 | YouTube




音楽クイズ No.09:最も長生したと思われていた音楽家は誰?


[難易度:★★★★★]

どの世界にもご長寿な人はいるものですが、かつて一番長生きした音楽家だと考えられていた人がいます。

しかし昔々のことだけに、生没年ともにあやふやなことはよくあることで、近年の研究によってその長寿が訂正されてしまいました。

"ご長寿王"から陥落したその音楽家とは?

💡ヒント
  • バロック時代の北ドイツ最大のオルガニスト
  • 少年時代のバッハが歩いてその演奏を聴きに行くほど

答え
ヨハン・アダム・ラインケン

絵画『家庭音楽のひとこま』より、チェンバロを弾くラインケン
ヨハン・アダム・ラインケン
Johann Adam Reincken
誤:1623 - 1722
正:1643 - 1722


北ドイツのハンブルクにおいて、絶大な影響力を持っていたオルガン奏者で鍵盤楽器作曲家のラインケン。

以前は1623年4月27日に生まれて、1722年11月24日に他界したと考えられてきました。これだと享年99歳ということになり、現代でも十分長生きのレベルですよね。

しかし近年、教会の洗礼記録から、1643年12月10日生まれだということがわかりました。つまり78歳で没したということになります。

当時のヨーロッパにおいて、78歳が長生きといえるかどうかわかりませんが、同時代に生きたパッヘルベルは58歳で、薫陶を受けたバッハは65歳で亡くなっています。

ラインケンの楽曲はほとんど残っていませんが、以下はバッハが少年のころに楽譜を写筆し、後にアレンジを加えたというコラール幻想曲『バビロンの流れのほとりで BWV 653』です。

Bach - An Wasserflüssen Babylon BWV 653 - Van Doeselaar | Netherlands Bach Society | YouTube

ちなみに、他の長生きした音楽家となると…
  • ジャン・シベリウス(91歳)
  • イーゴリ・ストラヴィンスキー(88歳)
  • ジュゼッペ・ヴェルディ(87歳)
…といった辺りが、ご長寿といえるのではないでしょうか。




いかがだったでしょうか?
ちょっと難しかったかもしれませんね。


これを機に、クラシック音楽の歴史や雑学について、興味を持っていただけたら嬉しいです。


そしてクラシック音楽の "雑学王" を目指してください!


最後までお読みいただき、ありがとうございました。
FUKUON 福田音楽教室 福田りえ


※この記事は2010年9月22日に公開し、2020年7月13日に加筆・編集してリライトしたものです。あくまで公開当時における内容となっていますので、今現在の状況を反映しているわけではありません。