番外編 第四部第五章 遠い日2/2






目的地は、跋難陀の想像と随分違っていた。
てっきりこじんまりとして素朴な民の住む集落だと思っていたのに、そこには見晴らしの良い広大な平地が広がり、民の家々、商売をする建物や寺などがあちこちに点在している。

活気がある、規模の大きな町だった。

鐘馗に聞けばどうやらここはこの辺りの交易の中心地らしく、他所から来たと思われる商人や、跋難陀たちと同じく半ば観光で来た風体の人物さえちらほらと散見された。
そして空は先ほど明るくなったばかりだと言うのに民の朝は随分早いらしく、もう朝市が開かれていた。

跋難陀は鐘馗に手を引かれながら馬を降り、そのまま鐘馗と良い雰囲気で歩いた。
やがて厩舎のある建物に辿り着くと、中から質素な折り烏帽子と袴姿の男が出て来た。彼は鐘馗と何事か話すと、跋難陀たちが着ていた上着と連れていた馬を預かり、元いた厩舎に戻って行った。

(あ、ちゃんと手回しして下さる方がいるのね)

どうやら鐘馗は事前に現地の者に根回ししていたらしい。
身軽になった跋難陀と鐘馗は二人で朝市を歩き、舞楽までの時間を潰す事にした。
初めて見る民の町を探索出来るのが嬉しすぎて、跋難陀は思わず早足になる。

「あ、鐘馗様。この木から良い香りがします」

一般の民よりも商材を仕入れに来た商人の方が多い印象の市を歩いていると、薫物に混じって黒っぽい木が何個も並べてある店があるのを跋難陀は見つけ、興味を引かれて立ち止まった。
近付いてみるとその木から良い芳香がするので、跋難陀はさらに木に近寄った。

「香木か」

跋難陀より少し遅れて店に入った鐘馗は木を一瞥してそう言った。
香木は内部が空洞になっていて、跋難陀が外側の樹皮に鼻を近付けるとさらに良い香りがした。量り売りなのだろうか、香木は既に部分的に截香されていて所々木肌が剥き出しになっている。
すると、これは燃やして使うのです、と奥から商人が出て来て説明してくれた。
さらに商人はちらりと跋難陀の隣に佇む鐘馗を見た。
どうやらその立ち姿から支払い能力がありそうと判断されたらしく、商人は見本用の小さな木片を香炉に入れると気前良くそれを燃やしてくれた。

「まぁ、すごく良い香り」

「良い香木は水に沈みます」

次は商人の手により普通の木片と香木の木片とがそれぞれ水に沈められる。

「まあ、こちらだけすぐに沈みました。鐘馗様、ご覧になりました?」

客向けの単純なデモンストレーションを見て感激する跋難陀を見て、鐘馗が適当に包んでくれと香木を指差して商人に話した。
香木は商人の手により惜しみなく截香されて袋に包まれ、跋難陀の手に渡された。

「鐘馗様、ありがとうございます」

跋難陀は嬉しくて、鐘馗に向かってぺこりとお辞儀をしてお礼を言った。

それからまた二人で市を見て歩いた。
市の店々に陳列されている物は全て物珍しく見えたけれどその一方で、お城にある物はここの物よりも数段良いんだな、とも跋難陀は感じた。
先程鐘馗に買ってもらった香木も、考えてみればお城にいくらでも加工済みの薫物が置いてあって、跋難陀はたくさんの種類からいつでも好きな物を選ばせてもらっていた。

「他に欲しい物は?」

「うーん‥見ていると楽しいですが、お城にある物の方がずっと良い品に見えます」

跋難陀のその台詞に鐘馗はちょっと笑い、気を良くした様子だった。

(あ、あれは食べ物だわ。美味しそう)

鐘馗と歩きながら、少し先に食べ物の屋台が出ているのを見つけて跋難陀はそこに駆け寄った。
店先には木製の甑でほかほかと温められたお饅頭が並んでいて、繁盛しているらしく早朝のこの時間でも人々が入れ替わり立ち替わりそこで饅頭を買って行く。

「鐘馗様。あの、私もあれを食べてみたいです」

間接的に褒められた事に気は良くしつつ、せっかくだから何でも買ってやるのにと少し残念そうな鐘馗の姿に応えたくて、跋難陀は思わず声をあげた。
食べ物ならばお腹に入れてお終いだから嵩張らないし、見たところあれは跋難陀がお城で食べた事もなさそうな物だ。

ところが鐘馗は跋難陀に連れられてその店の売り物を確認するなり、着物の袖で口と鼻の辺りを押さえながら眉を潜めた。

「やめておけ。‥これは人の食べる物ではない」

その発言を受けて、饅頭を買ってその場で美味しそうにパクついている民も、饅頭を売っている店主も、一瞬で固まってしまった。

(ちょ、ちょっと、鐘馗様‥何て事おっしゃるのですか、人の食べ物ですよこれは)

跋難陀は慌てて鐘馗を引き寄せ、耳打ちをした。周りの方が聞いたら気を悪くします、と付け加えて。

「では言い方を変えよう。これは、余とそなたが食せるような物ではない」

(その言い方も、まずいです‥!)

跋難陀は気まずくて焦りながら、鐘馗を引き摺ってその場から離れた。

「そなたが口にする物をあのような場所では買えぬ」

とりあえず店から離れた場所まで鐘馗を連れて来たものの、あの品は店先で何人にも触られていたとか、薄汚れていて製造工程で汚物が混入しているかもしれないとか、挙句にあの店主は病気持ちの可能性があるとまで鐘馗は言い出した。
大丈夫です私はお腹も強いですしと跋難陀は食い下がったが、鐘馗は誰が何処で作ったのかも分からない食べ物は与えられないと、市の食べ物を買うのを許可してはくれなかった。
後で屋敷に戻り食事をすれば良いと言って、鐘馗は譲らない。

(もう、鐘馗様は‥過保護)

跋難陀は少し呆れながらも、結局鐘馗に手を引かれて市を後にした。







「お待ちしておりました、まもなく始まります」

やがて鐘馗は跋難陀を引き連れて、ここに着いてから初めて見る大きな寺の境内に入った。
そこには馬で到着してから最初に会った男が待機していて、出会った時と同じく二人を恭しく迎え入れてくれた。
広大な境内には同じく大きな舞台が整備されていて、今日はきっと祭りか何かでハレの日なのだろう。既に紅白の幕や幟旗、楽器が準備され、数人の演者も待機していた。
そしてその舞台をぐるりと囲むように観客席が設けられていて、観覧に来た地元の民だろうか、老いも若きも皆そこに座り込み、辺りはガヤガヤとしていた。
そしてそれよりも舞台に近いこじんまりとした一角に、比較的良い服を着た人々もいた。
身分の高い客なのだろうか、彼らは扇などを手に持ってはためかせ、口元を隠して優雅に笑っている。

そんな中で跋難陀と鐘馗が男に案内されたのは、寺の二階の部分に外付けされている個室だった。
そこは地上の観客席とは完全に隔離されていて、舞台を臨む位置には綺麗な御簾まで付いている。
てっきり自分も民に混じってわいわいがやがや観覧すると思っていたが,ここは庇などが邪魔をして一階からは見えない貴賓席だった。

(こんなに良い席、いいのかしら。あ、でも鐘馗様がいるものね)

砂埃が舞いそうな地上の観客席に民と一緒くたにして鐘馗を座らせるのは、さすがに跋難陀も気が引ける。
一方でこんな特別な席に座って、もはや変装の意味とは‥とも思ったが、実際は鐘馗が鐘馗である事さえ周りに露見しなければ、それで良いのかもしれない。
彼の正体さえ分からなければ、暇な貴族がちょっとそれっぽい変装をして、女連れで珍しい物を見に来たくらいに思われて終いだろう。

「あ、始まりましたね」

鐘馗と並び座りそんな事を考えているうちに、楽しげな笛や太鼓の音と共に、舞楽が始まった。

跋難陀はもちろん初見だが、鐘馗は演目にも多少の覚えがあるみたいで、宮中の物が民間に降りて簡素化されたのだなとか呟いていた。

何目かあるらしい舞の一つ目は、金翅鳥を乗せた怖いお面を付けた男性の演舞で始まった。
演者は見慣れない極彩色の衣服を纏っているから、きっと異国の話なのだろうと跋難陀は理解した。
彼は、戦場を模した舞台で一人勇猛に戦う様子を舞で表現している。
そして舞の最後で、彼が被っていた仮面を勢いよく地面に落とすと、そこに立っていたのは端正な顔立ちの青年だった。

「分かりました。あの方、お顔が綺麗だから、戦の時は仮面でお隠しになっていたんです」

その台詞に鐘馗が頷いてくれたものだから、跋難陀は正解に気が良くなって当て物みたいで楽しいです、とはしゃいだ。

(美しいから仮面を付けなければならないのなら、私の鐘馗様はずっと顔をお隠しにならないといけないわ)

跋難陀は仮面を付けた鐘馗の姿を想像し、心密かににやついた。
そして次に始まった演目では、鳥の姿を表した作り物を付けた童が四人、金の天冠を頭に被り、体銅拍子を打って舞いはじめた。作り物の尻尾がピンと立っていて、皆随分可愛らしい。

「鐘馗様、あれは絵巻物で見た事があります。天上に棲む鳥ですよね」

思いがけず自分の知識にあるものが出て来た事が嬉しくて、跋難陀はつい隣の鐘馗の袖を引っ張って声をあげた。

「‥鐘馗様?」

返事がないから鐘馗を見ると、鐘馗は穏やかに微笑んだまま跋難陀を見つめていた。

「そなたの顔を見ている方が楽しい」

鐘馗は舞ではなく、くるくると表情の変わる跋難陀の表情を見て楽しんでいた様子だ。

「すみません、はしゃぎ過ぎてしまいました‥」

一方の跋難陀は恥ずかしくて、慌てて鐘馗の袖から手を離し、下を向いた。

鑑賞中にこんなに声をあげたらきっと鐘馗に迷惑だ。育ちの悪い女だと思われたに違いないと、跋難陀は赤面した。

(黙って鑑賞しなくちゃ)

心の中でそう決意して、跋難陀は童舞いの終わるのを黙って見ていた。
一曲目と同じくそれなりの時間をかけて可愛らしい舞が終わると、やがて最後の演目に切り替わる。
ここでも跋難陀は静かに鑑賞しようと、唇を真一文字に結んだ。

次の舞はまた童で、今度は龍のお面を付けた一人の少女の長舞だった。両の足首には小さな鈴が付けられていて、彼女が動くたびにチリンチリンと、清らかな鈴の音が舞台に響く。

(被り物からして、あの子が演じているのは人ではないものなのかしら。それにこの演目になってから舞台に敷かれた布の柄‥あれは、睡蓮の池かしら。鐘馗様に聞いてみる?‥‥だめだめ、黙って見なきゃ‥)

鐘馗の鑑賞の邪魔をしないように、唇を噛み喋らないように努めるが、跋難陀の上半身は無意識に前のめりになっていた。

(お城に帰ったら、色々調べてみよう‥)

跋難陀があれこれ考えながら舞台を眺めていると、ふと隣から自分をじっと見つめる視線を感じた。

「鐘馗様?」

思わず隣を振り返ると、鐘馗が今度は意外そうな顔をしながら跋難陀の姿を見ていた。

「あの‥もしかして私、声が出ていましたでしょうか」

そんなつもりはなかったが、夢中になるあまりひょっとして声が出ていたのかもしれないと恥ずかしくなり、跋難陀は慌てて両手で自分の口元を押さえた。

「いや、そうではない。ただ、そなたが好きな物も何もかも、知らぬままだったと思い‥」

鐘馗は、舞を食い入るように見ている跋難陀を見て、そんな事を思ったようだった。
以前に色々と聞いておけば良かったのに、今さらそれを確かめる事も叶わぬと、鐘馗は目を伏せて少しばかり残念そうに微笑んだ。

(鐘馗様‥)

思いがけない鐘馗の台詞に、跋難陀は顔がかあと熱くなるのを感じた。
跋難陀だって過去の自分が何を考え何を好んだのか知りたいと思った事はあるが、まさか鐘馗にそれを言われるとは思っていなかった。

「あの、嬉しいです‥。そんな事を、思っていただけるなんて‥」

鐘馗は‥顔を赤くして照れている跋難陀を引き寄せると、耳元で囁いた。

「舞が好きなら城でもやらせる。これよりももっと良いものを」

これは民が観る簡略化されたものだから、などと付け足して。

(あ、お数珠が‥‥)

引き寄せられた瞬間着物の袖が捲れ上がり、鐘馗から貰ったあの紫水晶の数珠を付けた自分の手首が、跋難陀の視界に入った。

(これ、少なくとも貴族階級の人の身に付ける物よね)

実際は多分、それ以上だろう。
不相応に豪華な装飾品を身に付けている自分の手首を見ると、潜在意識に沈めていた思いが不意に湧き上がって来るのを感じた。

「ありがとうございます。でも、何も要らないのです。鐘馗様からいただく物は、全て私などにはもったいなくて‥」

高価過ぎる数珠に目を落としながら、跋難陀は思わずぎゅっと拳を握り、下を向いた。

ここは一般の民の住む場所だと聞いているが、建物も土地も人もさっぱりとしていて小綺麗だし、よくよく考えてみれば日々の生活に追われる民は買うはずのない香木まで売られている。
それにこんな見事な演舞行事を行う場所まであるのだからきっと、民の町でもここはかなり良い方なのだ。
それなのに市に並んでいた品々は、跋難陀が所持している物と比べるとどれも数段見劣りするものばかりだった。
中でも鐘馗から贈られた品とは、比べ物にすらならない。

「鐘馗様からの贈り物、何だか自分には分不相応な物ばかりいただいているようで‥気が引けます」

「何があった。気に入らなかったのか」 

目の前の相手の発言の意図が掴めなくて、鐘馗の声のトーンは僅かに困惑の色を帯びたものに変わっていた。

「あ、いいえ、そうではないのです。‥少し前に、人に頼んで使用人の台帳を見せていただきました。お城には皆正式な手続きを踏んで雇われるから、城の使用人ならば必ずここに記載があると聞いて‥」

「‥‥‥」

鐘馗は途端に硬い表情になり、跋難陀が続きを話すのを無言で待った。

「でも、私の記録はなくて‥」

おまけに跋難陀が事故で記憶を失った前後に使用人の大規模な人事異動があったとかで、それ以前の跋難陀を知る者も結局、探せなかった。

「‥何かの手違いだろう」

鐘馗は腕を組むと跋難陀から目線を外し、真っ直ぐに舞台の方向を見た。

(そうなのかな‥)

城の人事台帳にも載らない理由なんて、碌な事情ではなさそうな気がする。

「もしかしたら私は、本来鐘馗様のお側にいる事も許されない身分だったり‥しないでしょうか」

さっきまであんなに楽しく観劇していたのに、ふとした話の流れで‥心の底に沈めていた妙な卑屈さを鐘馗に晒す事になってしまい、急速に跋難陀の気持ちは沈んだ。
以前、跋難陀の背中にある妙な傷痕も気にならないと言ってくれた鐘馗だけれど、それに加えてもしも自分が変な出自を抱えていたとしたら、彼はどう反応するのだろうか。

「そのような事を思っていたのか」

鐘馗は変わらず前を向いたまま、そう呟いた。

「心配するな。案ずるような事は何もない」

腕を組んだ鐘馗の視線はいつの間にか、跋難陀の方に向けられていた。

「あの、鐘馗様はもしかして私の昔を何かご存知なのですか?」

「‥いや」

答えながらも鐘馗は困ったように少し口籠もり、何やら言葉を選んでいる様子だった。

「そなたを見ていれば分かる。人の育ちは、隠せぬだろう」

「そう、なのでしょうか」

「ああ。そなたはそれなりの家に生まれ、手を掛けて育てられた娘なのだろうと‥思った」

鐘馗は少しだけ遠い目をして、そう続けた。
それから二人の間に空いていたわずかの距離も詰めて座り直すと、跋難陀の肩を抱き、自らの頭を跋難陀の頭にそっと寄せた。

‥‥こつんと、跋難陀の頭と鐘馗のそれとが触れあい、横並びで重なる。

「‥そなたの親が生きていれば、花も手折らぬまともな男にそなたを嫁がせたかっただろうな」

まさか余のような男は決して許さなかっただろう。鐘馗はそんな事も言って、自嘲気味に笑った。

「それなりの家の‥。本当に、そうでしょうか」

跋難陀は下を向いて、ぼうっと鐘馗の言葉を反芻していた。

「ああ」

「本当にそうであればもちろん嬉しいですが、もしもそうではなかったら‥」

跋難陀は緩んでいた両の手のひらをぎゅっと握りしめた。

「だとして、何か問題が?」

「だって、例えば‥物乞いだったかもしれません。罪人だったかもしれませんし、ひょっとして‥人殺しだったかもしれませんよ」

言いながら段々と深刻になる跋難陀の声を聞いて、しかし鐘馗は、ははと可笑しそうに笑った。

「それらの一体何が悪いのだ」

「それは‥‥」

何が悪いのだと言う鐘馗の問い掛けに、理由を上手く言語化出来ずに跋難陀が答えあぐねている時。小さく呟いた鐘馗の声が耳に届いた。

「‥別に余は、そなたが何者でも良いのに」

その台詞に跋難陀は顔を上げて、思わず鐘馗の方を振り向いた。

「例えそなたが帝の娘であろうと、都の民であろうと、河原の者であろうと、余は構わぬ」

見慣れた鐘馗の瞳が、いつの間にか静かに跋難陀の両の瞳を見つめていた。

「私が何者でも‥ですか?」 

「ああ」

「それは‥私が何処で何をしていたか分からなくても、でしょうか‥」

自分で言いながら緊張して来て、跋難陀は膝に置いていた両の手を再びぎゅっと固く握った。
しかし鐘馗はその問いにも無言で頷き、返答代わりに跋難陀を引き寄せて、その胸の内にふわりと抱きしめた。

それから跋難陀の耳元で、何でも良いのだ、と‥囁いた。

「何処にいようと、何をしていようと‥余が必ずそなたを、迎えに行くのだから」

(鐘馗様‥)

跋難陀は、抱きしめられたまま鐘馗の胸に自分の頭を預けて‥瞼を閉じた。
急に鼻の奥がツンとして来て、胸が熱くなる。

「‥でも私、またどこかで頭をぶつけて、鐘馗様の事を‥‥忘れてしまうかもしれません‥」

「余が憶えている。ずっと‥‥」

鐘馗は跋難陀の言葉にも動じず笑って、そんな台詞を囁く。

(ずっと私を‥)

気がつくと、跋難陀の伏せた瞼からは暖かい涙がぽろりとこぼれ落ちていた。
そしてそれらはすぐに目の前の鐘馗の衣服に吸い込まれ‥消えて行った。

「何故泣く」

涙に気がついた鐘馗はさらに跋難陀を抱きしめ、諭すように優しくそう呟いた。

「違います‥。これは嬉しいから、泣いているのです」

跋難陀は‥慌てて自分の着物の裾で目を擦り、涙を拭い去ろうとした。

「‥余はいつもそなたを泣かせてばかりだ。余はそなたの、笑った顔が見たいのに」

鐘馗はやわらかく微笑むと、親指の腹で跋難陀の頬にまだ残っていた涙を拭ってくれた。

(私、鐘馗様の前で泣いた事なんて、あったかしら‥‥)

ひょっとして、忘れてしまったずっと以前に、自分は鐘馗の前で‥泣いたのだろうか。

「私も‥‥私も、憶えていたいです。ずっと‥」

瞳を潤ませ鼻を赤くしたまま、跋難陀は鐘馗を見上げた。泣き虫でごめんなさい、と‥付け足して。

「良い。今のそなたの涙は悪くない。余を憎んでの涙では‥ないのだから」

鐘馗は一層優しく跋難陀の頭を撫でると、跋難陀の泣き笑いの顔を、再びその胸に包んだ。

(あ、歓声‥)

そしてその時。

まるでタイミングを見計らっていたかのように地上の舞台から‥人々の大きな掛け声と共に、銅鑼の音が響き渡った。

人々が一斉に騒ぎ囃し立てる声も。

多分今頃、舞手の少女が早替わりで龍から何かの姿に変化でもしているのだろう。
この歓声と音楽は、そのくらいの盛り上がり方で‥。
だからきっと今は、この日一番の見せどころ。

でも鐘馗も跋難陀も二人とも、互いに夢中でそれを見る事は叶わない。

「盛り上がるところ、見損ねてしまいましたね‥」

舞台から立ち昇る音を聞きながら、結末はどうなったんでしょうねなんて鐘馗の胸の中で跋難陀は呟いた。

対する鐘馗は無言のまま、跋難陀を抱く力を強めた。

だから跋難陀も鐘馗をぎゅっと‥抱きしめ返す。

そのまま抱きしめあって‥舞が終わるまでのひとときの間、跋難陀も鐘馗も、幸せな二人だけの世界に留まっていた。





























「跋難陀様、こちらです。秋水様ったら、跋難陀様のお部屋で寝ておられますよ」

その日。
近くで遊んでいたはずの秋水の姿が見あたらないから、城内を波と二人であちこち探していたら、突如彼女からの台詞が跋難陀の耳に届いた。

振り返ると、波はいつの間にか跋難陀の部屋の扉の中から顔を出していて、廊下にいる跋難陀を手招きしている。
導かれて跋難陀が部屋に入ると、波に言われた通り中には秋水が居て、畳の上にうつ伏せになって熟睡していた。

「まあ、いつの間に私の部屋に‥」

跋難陀が秋水の側に立ち寄ると、眠っている彼の手の辺りに何かがきらりと光ったのが目に入った。

(あら、これは‥)

跋難陀がよく見ると、秋水のその小さな手には‥何やら見覚えのある紫水晶の数珠が、しっかりと握りしめられていた。

「このお数珠、箱の中に仕舞っておいたのに、見つけて出しちゃったのね」

その言葉を受けて、波も秋水の手元を見た。

「確かこれは、上様にいただいた物じゃなかったですか」

「そうなの。何年も前に二人で出掛けた時に‥」

遊びに疲れてスイッチが突然切れたのか、秋水は行き倒れの人のように数珠を握った片手だけを伸ばし、床の上に倒れてすやすやと眠っている。

「見て下さい、他のお品も棚から出されてめちゃくちゃにされていますよ」

波は秋水から少し離れた場所に転がっている箱を見付けるなり、声をあげた。
箱は蓋が開けられたまま横倒しに倒れていて、中に入っていた髪飾りや宝飾品が無造作に床にばら撒かれている。

どうやらイタズラ盛りの秋水が跋難陀の部屋の棚を漁って箱を見つけ、箱とその中身を引っ張り出して遊んでいたようだ。

「こんな風に寝ちゃうなんて、珍しいですね」

「昨日遊んでばかりで、全然寝なかったからだと思うわ」

そんな事を話しながら、跋難陀は波と二人で秋水の身体を抱え、彼を城奥の別の部屋に移動させた。
新しい部屋に秋水を寝かせる時に彼の手が緩んだから、跋難陀はそのまま数珠を回収した。

「跋難陀様、私、秋水様が起きられるまで、ここで見ていますよ」

「ありがとう、お願いしてもいいかしら」

波の言葉に甘えて彼女に秋水を預け、跋難陀は回収した数珠を持って一人で部屋を出た。
それから跋難陀はもう一度自室に戻ると、横倒しになったままの箱を手に取り、床に散らばっている宝飾品を拾い集めて数珠と共に箱の中に戻した。

牛皮が張られ、夜光貝の螺鈿と花喰鳥の紋様とで装飾されたこの美しい箱には‥鐘馗から貰う髪飾りや宝飾品などをたくさん収納していた。

(あ、この髪飾りは‥お数珠と一緒に鐘馗様にいただいた物だわ)

床の上にばら撒かれた物を一つひとつ箱の中に戻しているうちに、見覚えのある紫水晶の髪飾りに行き当たる。
跋難陀はそれを手に取って、思わず懐かしさに笑みを漏らした。

髪飾りは‥かつて鐘馗と二人で遠出した際に、数珠とセットで彼から貰ったもの。
目立たないように変装したのにいきなり高価な髪飾りや数珠を装備させられて、当時はかなり困惑したものだった。

鐘馗との思い出が詰まっているこれらには思い入れが強すぎて却って日常使いが出来ず、今までの年月の大半をこの箱の中で過ごさせてしまっていた。

(‥あれから結局、鐘馗様と二人だけで外に出掛ける事はなかったのよね)

あの日‥‥あの寺院での演舞を見た帰り、そのうちまたどこかに遠出をしようと鐘馗と約束したけれど、戦の影響とやらでその後跋難陀は城外に出る機会をほとんどなくし、結局鐘馗と二人きりで出掛けたのは‥あの時が最後になってしまった。

(あれが最後と知っていたのなら‥もう少し、色々見てまわれば良かった)

もう二度と訪れない機会だったから、たった一度鐘馗と二人だけで出掛けたあの遠い日の思い出を‥跋難陀はその後も忘れる事なく、ずっと大切にその胸に抱いていた。

そして時々思い返しては‥懐かしく振り返る。

(いつかまた鐘馗様と二人だけでどこかに、出掛けられると良いな‥)

波の祈願のおかげだったのだろうか、あの後に秋水が生まれて、それから跋難陀は数年間のほとんどを、この城の中だけで過ごしていた。

お城の中だけで過ごす毎日も幸せだけれど、あの時みたいに鐘馗と二人でどこへでも出掛けられたら、どんなに楽しいだろう。

(その時は、この髪飾りとお数珠をまた付けて出掛けようかしら)

ふと思い付いて、跋難陀は微笑んだ。
そうなれば、鐘馗は気が付いて喜んでくれるだろうか。

(折角だから、またあの時と同じ場所に行ってみたいな‥)

‥‥あの日、二人で梅の花を見て、屋敷で碁を打った。
手のひらに舞い落ちて来た梅の花びらの感触も、朱と藍に染め分けられた碁石の美しさも、今も覚えている。

それから、互いに変装をして、馬に揺られながら色々話した。
そしてそのまま鐘馗と市場に行き、その後に舞楽を見て‥‥演目の一番最後は、二人して見逃して帰って来た。

(あのお屋敷や梅の木は、まだあるかな。朝市は‥鐘馗様はまた一緒に行って下さるかしら)

いつかもう一度あれらの場所を鐘馗と訪れて、あの時の事を色々話しながら歩きたい。

叶うのならばあの日と同じ、春告げ鳥が訪れる前の季節に。

(‥‥きっといつかまた、鐘馗様と二人で出掛けられるよね)

そんな日が来る事を楽しみに、跋難陀は他の散らばった宝飾品と一緒に髪飾りを箱の中に仕舞い、棚の上に再び収納した。
秋水にイタズラされないよう、今度はさらに奥の奥に押し込んで、簡単には見つからないようにする。



それから跋難陀は部屋を出た。
部屋の扉を閉める時、一瞬棚の辺りを見て、あの奥に大切な物が仕舞われているのだと、そして機会が来ればそれらを引っ張り出して、鐘馗に見せるのだと思って‥跋難陀は少し微笑んだ。






そして跋難陀は‥今度こそ部屋の扉を閉めて、そこから立ち去った。