第四部第十二章 波紋



男が消えた後に残った黒く焦げた紙を拾い、跋難陀はそれをじっと眺めた。

〈君は龍王だ〉

〈鐘馗に騙されているんだ〉

〈あいつは悪人だ〉

〈君は俺と結婚するはずだった‥〉

耳に男の台詞が響く。

(デタラメだわ。敵の言う事なんか信じられない‥!)

跋難陀は室内に戻ると、鏡台の前に腰掛け、鏡に映った自分を見た。

(でも‥)

この妙な胸騒ぎは何なのだろう。

(そう言えば‥気になる事はあったわ‥)

鏡に映る自分の顔は、ひどく不安そうに見える。

(私には、記憶がない‥)

難陀に君は龍王だと言われても、自信を持って違うと言える根拠が‥‥今の自分にはない。
跋難陀は着物をすっと脱いで上半身を露わにし、背中を鏡に映した。

鏡に映るのは、薄っすらとした刀傷の痕。

(この刀傷‥)

気にはなっていた。
この城で使用人として働いていたはずの自分に何故こんな傷痕があるのだろうかと。

偶然見付けて、医師に診せて聞いてみたところ、戦で負傷したのではないかと言われ、一時は納得した。

(でも、私が戦に出ていたなんて話は結局どこからも出なかった‥)

そうして次に跋難陀は髪を触った。

(‥あの髪飾り‥)

あの真珠の髪飾り。
あの時そなたには似合わぬと言った鐘馗に、跋難陀は妙な違和感を持っていた。

普段、女の格好に注文を付けるような人ではなかったはずなのに。

むしろ跋難陀が気に入っている物は進んで取り寄せてくれる男だった。
彼が跋難陀に与える事はあっても、奪う事など今までなかった。

そう言えばあの髪飾りには家紋が入っていて、鐘馗はそれを見て確かに顔色を変えた。
覚えている。

〈俺と君とは結婚するはずだった‥〉

〈この髪飾りは婚礼の時のお品として使われていたのではないかと‥〉

あの男の台詞と、波の言っていた言葉とが、交互に跋難陀の頭に木霊する。

「そんなはず‥」

しかし一度疑問を持つと、小石を投げ入れられた池の水が波紋を起こすように、疑念が連鎖して浮かんで来てしまう。

(そう言えば‥訓練場で伽羅様は、鐘馗様のお許しさえあれば私を殺すと言ったけれど‥何故、そこまで私を憎む?)

いくら気に入らなくても、同じこの城を出入りする仲間であれば、殺すだなんて言葉はさすがに異常だ。

そう、「仲間」であれば‥。

(もしも私が‥あの男の人の言う通り龍王で、‥この城に人質として来たのならば‥)

自分に記憶がないのも

伽羅が自分に憎悪を抱くのも

難陀と名乗る男が危険を冒して自分に会いに来たのも‥

(全て‥全て繋がる‥‥)

跋難陀の全身に、じわりと嫌な汗が流れる。
そんなはずないのにと、鐘馗を信じたいのにと思う一方で‥今まで感じていた違和感という点と点が勝手に繋がり、一つの線になってしまう。

考えを否定しようにも、城の奥に務める使用人に龍王がデタラメを言う道理もない。
そちらの方が、無理がある。

「ではもしも、もしも‥あの人が言ってる事の方が真実なのだとしたら‥」

その瞬間、跋難陀はお腹の中で、子がぐるぐると動くのを感じた。
思わずハッとして、跋難陀はお腹に手を当てる。

近頃ではお腹を蹴られるのをはっきり感じるほど、鐘馗との子は成長していた。

生まれて来るのを待ち望んでいる、愛しい人との愛の証。

跋難陀はふと、鏡台の上に出しっぱなしにしてある縫いかけの衣服を見た。

それは、生まれてくる子のために跋難陀があつらえている小さな産着。

やがてこの産着を着るのは‥愛する人と自分とを繋ぐ、愛しい存在のはずだ。



でももしもそれが、争い憎んだ相手との子だったら‥?



「私はひょっとして‥‥とんでもない事を‥」



跋難陀の動揺とは裏腹にお腹の子はより一層動き回り、からだ全体で生きる喜びを表現しているかのようだった。







次の日の夜になって跋難陀は、里帰りから戻って来た波から鐘馗の来訪を告げられた。
外では激しい雷雨が止まない中、現実逃避のために広げて眺めていた絵巻物を閉じて、跋難陀は扉のあたりを見た。

「鐘馗様が?」

「ええ、予定よりお早くお戻りになられたようで、もうこちらに向かっておられるそうです」

「そう‥」

「いかがされますか、もし跋難陀様の体調が優れなければそうお伝え致しますが」

「大丈夫よ。来られたらすぐに通してね」

「かしこまりました」

鐘馗に何と切り出すものか‥跋難陀の考えが纏まらないうちに扉の方から鐘馗の衣擦れの音が響き、やがて彼が中に入ってきた。

波はぺこりとお辞儀をすると、鐘馗と入れ違いに部屋を出て行く。

「跋難陀」

「鐘馗、様‥」

その姿に加えて、ふわりと風に乗って漂ってきた鐘馗の香の匂いも相まって、跋難陀の心は急速に高鳴る。
その心持ちの移ろいに、自分でも何て現金な人間なのだろうと思う。
今の今まで、緊迫した心持ちだったのに。

その長身の体躯にすらりと伸びた手足、色気を帯びた切れ長の瞳‥久しぶりに見た鐘馗の姿は、相変わらず美々しくて‥。彼がいるところだけ光輝いて見えるのは、跋難陀が鐘馗に‥恋しているからなのだろうか。

「こんな時間に‥どうされましたか。本日はまだお戻りにならなかったのでは」

跋難陀は鐘馗の元に駆け寄り、彼を見上げた。
そんな跋難陀を鐘馗は優しく抱きしめ口付ける。

「予定が早まってな‥そなたの顔を見に来た」

「そうだったのですね‥嬉しいです」

「‥少し、大きくなったな」

抱きしめた時に跋難陀のお腹が当たったのだろう、鐘馗がそう言った。
着物を着ているとまだ分からないが、跋難陀のお腹は近頃ふっくらと大きくなって来たのだ。
跋難陀は、鐘馗の発言に照れて下を向いた。

「‥この先も二人だけでいたい気もするが、そなたとの子が欲しかったのでな」

跋難陀を胸に抱いたまま、鐘馗はそう呟く。

「そう‥なのですか」

「ああ‥子がいればそなたがもしも‥‥いや、やめておこう」

「?」
 
何かを言いかけて、鐘馗はそれを明かすのをやめた。
そしてそのまま、鐘馗は跋難陀の髪飾りに視線を落として、穏やかに微笑む。

「思った通り、よく似合っている」

「ありがとうございます。ただ私の髪いじりが下手で‥この結び方だと子供っぽくありませんか」

「いや、そなたによく似合う」

部屋には鐘馗の衣類なども揃えてある。
鐘馗はゆったりとした着物に召し替え、しばらく跋難陀と雑談し、くつろぐ。

やがて鐘馗は跋難陀の身体に自らの身体を寄せ、跋難陀もそんな彼と密着した。

「ところで‥鐘馗様、昨日、見知らぬ男が部屋に現れたのです」

話の間に跋難陀は思い切って口を開いた。

「見知らぬ?‥余以外の男がそなたの部屋に入れるはずあるまい」

しかし鐘馗は余裕の笑みでそう返す。
そのいつもと変わらない鐘馗の表情に、跋難陀は安堵感を覚えた。

(やっぱり、何かの間違いなのだわ。私と鐘馗様が敵同士なはず、ないわ)

「それが、実体ではなく幻術でございました」

だから続きの言葉を聞いても、きっと鐘馗は跋難陀を安心させる台詞を言ってくれるはず。

‥そう思ったのに。

それを聞いて鐘馗の顔色が変わった。
鐘馗は身体を起こすと、跋難陀の方に向き直る。

「‥どんな男だ?」

「難陀と‥名乗っておりました」

「‥この城の者ではないな」

鐘馗は曖昧にそう返す。
跋難陀はその答えに胸がざわざわとした。‥嫌な予感がする。

鐘馗は知らないだろうが、跋難陀は以前香椎に術を教えてもらった時に、会話の流れでたまたま彼から難陀の名前を聞いていたのだ。

当然、鐘馗自身が龍王である難陀の名前を知らないはずがない。

何もやましい事がなければ、何故それは龍王の名だと跋難陀に明かさないのだろうか。

「鐘馗様。私は、昔の事が思い出せません。長い間鐘馗様にお仕えしてきたと聞きましたが‥難陀と名乗るその男は、自分は私の仲間で、鐘馗様が‥私の敵だと‥」

敵、と言う言葉に差し替かったあたりで、跋難陀はどんな顔で鐘馗に向き合ったら良いか分からず、顔を背けた。

「跋難陀」

しかし跋難陀の話を遮り、鐘馗は彼女の身体をぐいと引き寄せると、その額に自分の額を重ねた。

鐘馗の額にある梵字が跋難陀の額にぴたりと当たる。

「見も知らぬ男の話など信じるな」

鐘馗は優しく笑う。
そして右手で跋難陀の顎を引き上げ、その唇に再び口付けようと近付く。

(いけない‥)

いつも何故だか、鐘馗に口付けられるとそれだけで跋難陀は何も考えられないようになってしまう気がする。
先程のそれと違い、今回の口付けにはそんな意図が見え隠れするのだ。
それを察知して確かに意識は反抗しようとするのに、しかし身体は言う事を聞かない。それどころか逆に吸い寄せられるようにして、跋難陀の腕は鐘馗の首に絡み付き、鐘馗を受け入れてしまう。

「そなたは、余の事だけを考えておれば良い」

「鐘馗様‥」

二人の唇が重なり、やがて跋難陀は意識を失う。
ドサリと落ちた跋難陀の身体を、鐘馗は腕の中で受け止めた。

(私は、鐘馗様の事だけ‥)

混濁する意識の中でただぼんやりと、跋難陀は鐘馗の言葉を反芻していた。








『‥難陀に力を貸したのは徳叉迦か娑羯羅か?』

『恐らく‥』

これは夢なのか、跋難陀の耳に男たちの声がする。
何だかひどくエコーのかかって聞こえるそれは、いずれも聞いた事のある声。

『この呪符‥奴らには禁術ではないか。それも奴らの最も忌み嫌う‥』

『兄上、敵は相当追い詰められていると見えますぞ。このような技にも頼らざるを得ない程‥』

『ああ、よほど焦っているのだろうな』

『念のためですが、跋難陀は今後は‥』

『分かっている。もう一人では外に出さぬ』



(‥‥なんの‥話‥‥)

しかしそこで跋難陀の意識はぷっつりと途絶えてしまった。


そして次に目覚めた時、跋難陀の記憶からは、一連の事件の事はすっぽりと抜け落ちてしまったのだった。