第四部第二章 椿



跋難陀の部屋に訪れた相手を波が出迎えると、その人物は早速部屋の中に足を踏み入れて来た。
年は若く、これまた跋難陀と同じくらいだろうか。
彼女の髪は短く、また前髪だけを片方長く垂らしていた。

「跋難陀。上様がお呼びだ。やはり今日来いとの事だぞ」

「え、今ですか?あの、香椎様が明日で良いと‥」

跋難陀はビックリして女性にそう返した。
記憶を失ったばかりで混乱しているのだ。
少しでも落ち着く時間が欲しいと思った。

「香椎様とおぬしがどんなやり取りをしたのかは知らんが、仕方ないだろう、上様のご命令だ。まだ大広間にいらっしゃるから付いて来い」

女性は有無を言わさない様子でピッと部屋の外を指差し、跋難陀に付き従うようにプレッシャーをかけて来た。

「はい‥。あ、あの、あなた様のお名前は?」

「ん?ああそうか、お前記憶が‥。私の名前は沙羅だ。以前からお前の事は知っているぞ」

「沙羅様ですね。このような事になりご迷惑をお掛けすると思いますが、よろしくお願いします」

跋難陀は沙羅に向かって丁寧にお辞儀をした。

「沙羅、様‥だと?」

お辞儀をされた事と沙羅様という発言に彼女はピクンと反応した。

「はい。あのう、何か失礼がございましたか?」

「あ、いいや!何も問題ないぞ。ふふふ。お前は以前はナマイキだったが、今は殊勝な感じだな。良いぞ」

「は、はあ‥」

何故だか沙羅はとても嬉しそうだ。
跋難陀はその理由が分からず不思議だったが、取り急ぎ彼女と部屋を出て大広間とやらに向かった。

「ここだ」

大きな部屋の前で沙羅は立ち止まり、共に中に入るように跋難陀を促した。

入り口の金箔貼りの襖には一面に虎の絵が描かれていて、こちらを睨んでいる。
その表情と爪に威嚇される気がして、跋難陀は思わず身構えた。
襖の取手には房飾りを付けた緋色の紐が取り付けられており、この部屋にいる者が特別な立場にある事を示唆していた。
間もなく内側から襖が開かれ、跋難陀は沙羅と共に中に足を踏み入れた。

「沙羅でございます、跋難陀を連れて参りました」

沙羅は跪くと、遥か先の玉間に向かって声を出した。

(うわあ、すごい部屋‥)

跋難陀は感嘆した。
記憶がなくとも、それまでいた部屋とあまりにも雰囲気が違うから、この奥の玉間にいるのが城主であろう事は跋難陀にも即座に感じ取れた。

部屋はかなり広く、天井は金箔塗りの折上格、欄間には檜の板を両面から透かし彫りにした彫刻。また一つひとつの柱に取り付く花熨斗形の長押金具などが何とも豪華である。
そして玉間には床の間、違棚、付書院、帳台構が備えてあり、天井は二重の折上格になっている。玉間の背には大きな松と鷹を描いた襖絵も鎮座する。
黒っぽい御簾が邪魔して、そこにいるであろう城主の姿だけが見えなかった。

(あ、香椎様がいらっしゃるわ)

ぴりっとした空気の中、玉間からやや離れた下段の間に香椎の姿を見つけて、跋難陀は少し安堵した。
まだ会うのが二回目とは言え、見覚えのある人物がいるだけで何だか安心する。

(そしてあの人が伽羅様かしら)

玉間まで行くように香椎に目配せされたので歩きながらも、跋難陀は香椎の隣にいる長い髪の女性をチラリと見た。
波の話によれば彼女も幹部の一人で、沙羅の姉にあたるらしい。
全体的にひんやりとした美しさを持つ彼女のその瞳は蛇のように鋭く、姉妹でも大分雰囲気が違うものだと思いながら、跋難陀は真っ直ぐ玉間まで歩いた。

そして跋難陀が御簾の前にちょこんと正座すると、中からゆったりとした様子で長身長髪の男が出て来た。
その姿は跋難陀が想像していたよりも、だいぶ若かった。

(あ‥冷静に考えたら、香椎様のご兄弟ならばこのくらいの年齢なのかな。それにしてもこちらも、同じご兄弟でも香椎様とは雰囲気が違うのね?)

この部屋のしつらえのせいもあるのだろうが、彼の身に纏う迫力は他の者に比べても桁違いだ。
その流麗な切れ長の瞳に睨まれたら、何もしていなくても私が悪うございましたと謝りたくなってしまう程で‥。

「跋難陀。余が誰であるか分かるか」

その迫力とは裏腹に、男は穏やかな様子で跋難陀に話し掛ける。彼の声は深く響く声質で、耳触りの良いものだった。

「は、はい。香椎様の兄上で、ご城主であると聞きました‥」

跋難陀はそう返事すると両手を床について深々とお辞儀をした。
自分でもびっくりしたが、恐らくこれが立場が上の者への挨拶なのだろう。きっと体が覚えていて反応したのだと跋難陀は解釈した。

「‥では余の名前を知っているか?」

そんな跋難陀の様子を男はわずかな笑みを浮かべながら見ていて、少し質問を変えて来た。

(名前?)

当然跋難陀には彼の名前が分かるはずもなかった。目覚めてから誰からも兄上とか上様とか、そういう名前でしか聞いた事がないのだ。

「‥も、申し訳ありません」

跋難陀は床についた自分の手を見つめながらそう言うしかなかった。‥思わず、冷や汗が出る。
波の、上様は恐ろしいお方ですと言う声が頭をぐるぐるとする。
ひょっとして名前を言えない事で彼の怒りを買ってしまったらどうしようと‥跋難陀は恐怖を感じた。
しかし男の反応は、意外なほどあっさりしていた。

「法城鐘馗だ。覚えておくが良い」

何故だろう、跋難陀の反応に対して鐘馗と名乗る男はうっすら微笑み、どこか満足そうにすら見える。

「は、はい‥」

自分が記憶喪失であるから仕方ないと思って下さったのかしら、そう思いながら跋難陀は頭を下げた。

身体に問題がなければ明日から復職するようにと鐘馗に促され、跋難陀はただそれを受けた。

部屋に一人戻ってからは、届けられた業務日誌を読んで自分が過去どんな仕事をしていたのかを跋難陀は確認する。

「思い出は失くしても、こう言った日常の動作や習慣は失わない事が多いそうですよ」

本を読み、こんな複雑そうな仕事を出来るのかと不安げな跋難陀を見て波が励ましてくれた。
波は半年間の記憶こそないが、半年前にはしていなかった跋難陀の側での仕事を身体が覚えているのだという。
またこの部屋に来てからも、跋難陀や部屋の中の風景に何となく慣れ親しんだ雰囲気を感じたらしい。
跋難陀もそれを聞いて、気持ちが少し落ち着く。
その日は波に一緒に寝てもらい、この城の事を色々と聞きながら、跋難陀は明日に向けてゆっくりと休んだ。




翌早朝。

寝る前に波に目覚まし係を頼んでいたが、跋難陀は時間より大分早く目が覚めてしまった。
初冬と言う事もあり、まだ外は暗い。
こんな風に目覚めたのは‥やはり緊張していたからだろうか。
目覚めはあまり良くなく、何だか喉が乾燥する感じがする。
もう一度寝ようかとも思ったが、もう目が冴えて無理そうだったので、跋難陀は波を起こさないようにして上着を羽織り、そっと障子を開けて庭に出た。
庭はごく小さなスペースで、浴室へ渡る道が造られている点を除けば、庭と言うより坪庭と呼ぶに相応しい閉鎖空間であった。
跋難陀が上空を見上げると、薄暗い空だけが建物の形に四角く縁取られて見える。
縁側に腰掛けて跋難陀がふぅと息をつくと、寒さでそれが白く濁った。
跋難陀は頬杖をついてぼんやりと‥空を見つめる。

(法城‥鐘馗って言ったよね、あの人。みんなが上様って呼んでいたから‥私もそう呼んだ方が良いのかな)

昨日は色々と不安だったけれど、一日寝て少し自分の置かれた環境に慣れて来た気がする。
もしかしたら元々の自分は割と切り替えの早い人間だったのかな。‥そうだと良いな。
跋難陀は一人、そんな事を考えていた。
それから、他にやる事もないので静かに顔を洗ったり着替えたりして時間を潰す。
昨日波が準備してくれて事前に色々教えてくれたから、跋難陀一人でも準備はスムーズに出来た。
そして少し早いけれど、手持ち無沙汰な跋難陀は鐘馗の部屋に行く事に決めた。
波はまだ寝ていたので起こさないようにして部屋を出る。
廊下を歩き、昨日波に教えてもらった通りに鐘馗の私室を目指した。

(気が重いからかしら、足まで重い気がして来たわ‥)

恐ろしいと噂の自分の主人の元に、記憶のないまま行くのはやはり不安な跋難陀であった。
鐘馗の部屋に着くと、すぅと大きく息を吸い込み、軽く咳払いをしてから中に入る。

(少し早く来てしまったけれど、う、上様は寝てるかな、起きてるかな‥)

おずおずと様子を伺いながら中に入ると、広い部屋の中で鐘馗は一人、まだ寝具の上で寝ていた。

(わー‥。私の部屋よりも大分広いのね)

跋難陀は中の様子を注意深く観察した。
鐘馗の部屋はメインの大きな部屋の他に襖で仕切られて何部屋かが続いていた。
業務日誌を読むところ、メインの部屋以外に書庫と執務用の部屋、着物や刀など私物を置いておく部屋など数部屋に分かれているはずだ。
またこの部屋の他に、鐘馗用のもう一つの書庫や、衣装を収納している部屋、武具庫なども別の場所にあるらしい。

また朝は彼の公務まで着替えや食事の世話をしつつ、花瓶の花を替えたりするらしいが、記憶のない跋難陀には当然何からどう手をつけたら良いのか分からない。
跋難陀は静かに鐘馗の寝ている場所まで近付くと、こちらに背中を向ける形で横向きに寝ている彼を見た。

(起きるのを待った方が良いわよね。歩き回って起こしてはいけないし‥)

次の動きに迷いながらきょろきょろとしていると、跋難陀の目に、床の間の花瓶が見えた。

(あ、お花は替えられるかも。たしか日誌にはお庭の花を切って飾る事が多いって書いていたわよね。昨日確認した間取り図だと障子の向こうがお庭のはずだけど‥)

「勝手にお庭に出て良いのかな?」

跋難陀が思わず独り言を呟いた時だった。

「棚の中の鋏を持って行け。‥そなたはいつもそれを使っていた」

その声に跋難陀はびくっと震えた。
発言したのは、まだ寝ているはずの鐘馗だったからだ。
跋難陀は、自分のいる方向にくるりと向きを変えた鐘馗とバッチリと目が合ってしまったものだから、慌てて正座して彼と向き合った。

「あ、起きていらしたのですか。もも申し訳ございません‥」

「驚かせるつもりもなかったが、そなたがうろうろするものだから、起き上がる機会がなかったのだ」

鐘馗は顔や服にかかる髪を無造作に掻き分けながら起き上がる。そして一つの棚をガラと開けて、南部鉄器のような材質の花切鋏を一つ取り出した。そしてそれをポンと跋難陀に握らせると、鐘馗は枕元に置いてあった上着を羽織り、庭に彼女を誘導した。
跋難陀は戸惑いつつも鐘馗の後ろを付いて行き、庭に出た。
庭には朝露が降りていて、芝生や植えられている他の草花が水滴を反射しキラキラと光っていた。
鐘馗の部屋の庭は広いが、初冬のためか今は目立つ花はあまり咲いていない。そんな中、跋難陀は大きな花を咲かせる椿の木に目を止めた。
花の事はよく分からないが、この派手な花ならば床の間の花瓶に生けるのに相応しそうだ。
 
(それにこのはっきりとした鮮やかな色が、上様の雰囲気に合うような気も‥?)

跋難陀は鋏を持って目ぼしい椿の花の前まで手を持って行くが、肝心の切り方がよく分からない。

(根本から切るのかな、それとももっと手前?‥そもそもこの花は切って大丈夫なのかしら)

跋難陀がそんな風にもたもたしていると、横から鐘馗が手を差し伸べてきた。

「鋏を」

そう言われて一も二もなく跋難陀は鋏を彼に譲った。
跋難陀の手にはやや大きく不安定な持ち方しか出来なかったその鋏も、鐘馗の手に渡ると難なく使いこなされる。

鐘馗は椿の花を慣れた様子でパチンパチンと幾つか切って跋難陀に渡した。

「そなたはいつもこのようにしていた」

「あ、ありがとうございます」

跋難陀は恐縮して花を受け取り、ぺこりとお辞儀をした。
鐘馗はそのまま跋難陀と部屋に戻ると、水切りから花瓶に花を生けるところまでを手伝ってくれた。

「申し訳ありません、上様のお手を煩わせてしまって」

「構わぬ。そなたが以前やっていたようにしただけだ」

花の件が片付くと、鐘馗は奥から自らの着物を出して来て着替えを始めた。

「手伝いを」

そう鐘馗に促された跋難陀だが、男性の着付けなど分かるはずもない。
自分の着替えだけは昨日波に習い、何とか今朝一人で着替える事が出来たくらいなのだ。

「あの‥上様、私のような身の上の者が上様の身の回りのお世話など、やはり出来ません‥どうか他の方を後任にしていただけませんか」

跋難陀はぎゅっと目を瞑り、頭を下げた。
この後に及んでこんな風に職務を放り出すのは恥だが、着付けだけではなくこの先色々と分からない事が出て来るはずだ。
昨夜までは何とかなるかもと自分を鼓舞していたが、いくら業務日誌を読み込んでいても限界があるのだと、鐘馗の部屋に来て跋難陀は悟った。
その度に、先程の花のようにいちいちやり方を鐘馗に手取り足取り教えさせる事など到底現実的ではない。
目の前の男性は跋難陀の主人と言うだけでなく、この城の主なのだ。
そんな立場の者に先程のような真似を続けさせる訳にはいかない。
幸い自分が事故で眠っている間は他の人間が数人でこの仕事をしていたという。
だから別に跋難陀でなくても仕事の担い手はいくらでもいるはずだ。

(お城の草むしりとか、お洗濯係とか‥‥こんな私にも出来そうなお仕事に就かせてもらおう‥)

跋難陀は鐘馗から、分かった、もう下がれと言われるのを下を向いたまま待った。
しかし、それに対する鐘馗の返答は意外なものだった。

「跋難陀。余に着物を着せてみよ」

鐘馗は戸惑う跋難陀に着物や帯を渡し、最初の着物を一枚羽織って、再び彼女に着付けるように促した。

(ええ?そんな、私に出来るわけないのに‥)

跋難陀は不安に思いつつも、渋々鐘馗の着物に手をかけ、何となく着付けの仕草を取った。

‥‥すると不思議な事に、手が動く。

帯を締め、次の着物を着せ、小物も合わせていく。
何故か、何枚もある着物も何となくこれが上でこれが下に合わせる物だと跋難陀には分かってしまう。
気が付くと跋難陀は、内着から覗くかさねの配色にまで気を配りながら着付けを完成させていた。
仕上がった鐘馗の格好は先程の素っ気ない淡色の寝巻きと違い、彼に相応しい威厳と端麗さを兼ね備えた美しい仕上がりとなった。

「‥出来ました」

自分でもこれが自分の仕事だとは思えないほど、立派に。
跋難陀ははぁと感嘆のため息をつきながら声を出した。

「以前と変わらぬ仕上がりだ」

鐘馗はそんな跋難陀を見てにこりと笑う。

(わあ‥笑うとこんなに優しいお顔になるのね)

鐘馗の満面の笑顔を見て、思いがけず跋難陀の胸はトクンとときめいた。

緊張のあまり昨日は意識していなかったが、こうして見る鐘馗の姿は、確かに美丈夫という波の言葉が相応しい。
そんな男がこんな風に笑うのは破壊力が凄すぎて反則だと、跋難陀は鐘馗から目線を外し密かに照れた。

「記憶を失っていても、日常生活や慣れた動作は忘れぬと、香椎が申していた」

その後運ばれて来た食膳を鐘馗と囲みながら、跋難陀は彼がそう話すのを聞いた。
また聞けば、以前は鐘馗に食事を運ぶだけだった跋難陀だが、今では配膳は他の者に任せて鐘馗と朝の食事をするのが跋難陀の日常になっていたとの事だった。

「しかしやはり何事もしばらくは慣れず、失敗を重ねてしまいそうです。その度に上様のお手を煩わせるわけには‥」

「構わぬ。そなたは飲み込みが良い故、すぐに慣れる」

「ですが‥」

「‥‥落ち着かなかった。そなたがいない数日は」

「え?」

跋難陀はびっくりして思わず鐘馗を見た。

(落ち着かなかった‥?って、どういう事かしら。私は‥‥ただのお世話役なのに?)

「そなたがいる間は気にした事もなかったが‥いつの間にか、そなたが余の側にいるのが当たり前になりすぎたようだ」

あまりに率直すぎる鐘馗の言葉に‥跋難陀の顔はかぁっと熱くなる。
そこまで言われたら、これ以上断れるはずもない。
ましてやこんないい男だ。跋難陀の胸は掻き乱れる。

「今後も、余の側に仕えてくれるな」

「‥はい、では、よろしくお願いします‥」

最後の言葉はもうかき消えそうになりそうな音量だったが、跋難陀は顔を赤くしたまま下を向き、やっとそう絞り出した。

その後鐘馗は公務に向かったが、跋難陀は部屋で彼の帰りを待った。
彼が部屋に戻ってから、跋難陀の仕事を色々教えてくれるというからだ。


そして時間が経ち、鐘馗は戻って来た。

彼は跋難陀の質問にこれはこう、ここは‥と鐘馗本人の要望の他、以前跋難陀がしていた事をそのまま見た形で教えてくれた。

「そういえば上様、お仕事のない時や上様がいらっしゃらない場合は私はどうしていましたか?」

「用事がなければそなたは好きな時に自分の部屋に戻って良い。ただ合間に余が色々と申し付けるから‥そなたは日中はこの部屋にいる事が多かったな」

「そう、ですか」

一通り質問を終えた跋難陀に、鐘馗は書庫から何冊か本を選んで持って来た。

「これはそなたがよく読んでいた本だ。持って行くが良い」

聞けば跋難陀は読書が好きで、よく鐘馗から本を借りて読んでいたそうだ。

「そなたの記憶がない事で困るのは、書物の事が分からぬ事だな。そなたと色々話すのは楽しかった」

それはほんの数日前までの事だったはずなのに、鐘馗は懐かしむような目で、跋難陀に貸した本を見ていた。

(本、好きだったんだ‥私)

跋難陀は鐘馗から借りた本をぎゅっと握った。そして自分の部屋に帰ったら、一番にそれらを読みたいと思った。

(少しでも早く以前の状態に近付いて、上様のお役に立ちたいわ)

「上様、ありがとうございます。今日は城主の上様のお手を煩わせてしまい‥早く以前と同じ状態に戻れるように頑張りますね」

「以前のように、か。嬉しいが、それも困るな」

「?」

鐘馗は自嘲気味に笑う。
その意図が分からず跋難陀は心の中で首を傾げた。

「それから跋難陀。その呼び方は止めよ」

「あ、申し訳ありません。失礼でしたか‥?」

他の者がみな上様と呼ぶので跋難陀もそれに倣っていたが、何かいけなかったのだろうか。跋難陀は慌てて口に手を当てた。

「鐘馗で良い」

「えっ‥お名前で、ですか?」

「ああ。そなたは余をそう呼んでいた」

(私、上様をお名前で呼んでいたの?‥いいのかしら)

「えっと、では‥しょ、鐘馗様」

「呼び捨てだったぞ」

「ええっ?!」

なんと畏れ多い事だろう。本当に使用人の立場で自分は雇い主を呼び捨てにしていたのだろうか。
私をからかっているだけだよね?と心の中で思いつつ、跋難陀は冷や汗が止まらない。

「あのっ、そのような訳には参りませんし、鐘馗様と呼ばせて下さい‥」

「そうか?まあ、良いが‥」

(本当に、からかわれているだけだよね?)

跋難陀はそんな鐘馗を顔を真っ赤にして見上げた。

その日中は仕事の復習を兼ねて跋難陀は、鐘馗の部屋でほとんどを過ごした。
夜になり一日の仕事を終えた後、やっと跋難陀は部屋に戻った。

「お帰りなさいませ、跋難陀様。どうでした?」

行ったきりちっとも部屋に戻って来ない跋難陀を心配していた波が、飛び出すようにして跋難陀を迎えてくれた。

「大丈夫よ。上様‥鐘馗様が色々教えて下さったの」

時間が遅いのでそのまま入浴の支度をしながら、跋難陀は波に報告する。

「ええ、上様が、色々教えて‥?ええ?」

波は跋難陀の話を口をあんぐりと開けて聞いていた。
何でも、波の知る鐘馗はそんな親しみやすい人物ではないらしい。

「そうですか、そんなに上様は穏やかに‥」

「うん。とてもお優しい方だったわよ」

あまりに波が、そんな、上様はそんな方でしたっけ?とぶつぶつと言っているので、終いには跋難陀もこれから鐘馗が恐ろしい素顔を明かして行くのかしら?と不安になった。

しかし、次の日もその次の日も、鐘馗は変わらなかった。

初日と同じく、彼は変わらず跋難陀に優しかったのだ。