第三部第十六章 手紙



波のいない時を見計らって、跋難陀は仲間に向けて手紙を書いた。

(何と書いたら良いのかな‥入れる場所の狭さを考えると、文字は必要最低限しか書けないし‥)

跋難陀は小さく千切った和紙に、細い筆で下書きをする。

(‥違う、もっと簡潔に‥一番大事な事だけ書かなきゃ)

走り書きをしては何度も破り、形跡を残さないように都度紙を燃やした。
緊張で思わず跋難陀の額に汗が滲む。

(‥多分、一度きり‥)

跋難陀はごくりと唾を飲んだ。難陀たちに伝言を残せる機会は、きっとこれが最初で最後だろう。

鐘馗の言う事が本当ならば、もうすぐ自分は記憶を失い‥全てを忘れてしまうらしい。

だから、跋難陀は思いを込めて紙にさらさらと筆を走らせた。

「よし‥!これで良いわ」

書き終えると跋難陀は自らの髪を少し切って紐で結び、手紙と一緒にする。
‥開封した者が、この文書は確かに跋難陀が書いたのだと判断出来るように。

そして、それを縫い上げた手製の首輪の中に入れて、中身が溢れ落ちないように布同士をしっかりと糸で繋ぎ合わせた。

「にゃー」

「‥頼んだわよ」

跋難陀は猫に首輪を付けてそう言う。
猫はやはり全て分かっている風で、その宝石のように輝く瞳を跋難陀に向けた。

「まあ、可愛らしい首輪。跋難陀様がお縫いになったのでございますね。この子はミケだから首輪の赤い色がよく映えます事」

部屋に入って来て猫を見た波は、猫が付けている跋難陀の手縫いの首輪を褒めた。

「私も猫は大好きなので嬉しいです。この子はまだ一歳くらいかしら。長生きするのよ〜」

ニコニコしながら猫じゃらしで猫と遊ぶ波は本当に猫好きなのだろう。

(う‥。ごめんね波、この子は、ずっとはここにいないのよ‥)

跋難陀は無邪気にはしゃぐ波を見て、少しばかりの罪悪感に苛まれる。

そう。

猫は‥早く外に逃さねばならない。
留魂の術の完成がいつなのか分からない以上、可及的速やかに。

しかし、問題が一つ。
跋難陀は‥一人で外には出られない。
以前は武具の手入れなどを口実に建物の外に出る事を許されていた時期もあったが、龍乃の事件以降、跋難陀一人で城内から出るのは完全に禁止になった。
現在、跋難陀が外に出られるのは基本的に鐘馗などと一緒の時だけだ。

(それに犬ならば散歩を口実に外に出せそうだけれど、これは猫ですものね‥)

しかし時間はない。
今日明日にでも猫を外に出したい。

波など他の者に頼む事は出来ない。‥‥自分の目で確かに逃したと確認しなければ、安心出来ないから。
万が一鐘馗に気取られてしまう可能性を考えると、龍乃の件の時のように無茶をして外に出る事も出来ない。
やはり跋難陀が自然な形で外に出られる時を待つ他なかった。

(ここから一番近いのはやっぱり中庭だけれど、それには、鐘馗の部屋から行くのが一番早いのよね‥)

夜になり、どう猫を外に出したものかと寝所で悶々としているうちに、跋難陀は眠ってしまった。
猫はと言えば、呑気に跋難陀の隣に潜り込み、足元のあたりで丸くなって一緒に寝ていた。




次の日。

跋難陀が鐘馗の部屋へ行こうとすると、一緒に猫が付いて来ようとする。

「あなたねえ、鐘馗の部屋に勝手に行ったら食べられちゃうかもよ?怖い男なんだから‥」

跋難陀は猫を抱っこしてナデナデし、言い聞かせる。
猫は黙って、喉をぐるぐると鳴らしていた。
猫をもう一度部屋に戻し、跋難陀は鐘馗の部屋に向かう。

「おはよう、鐘馗」

もう跋難陀にとって鐘馗の部屋付きの仕事は慣れたものだ。
最近では着替えなど嵩張るものは前日に選んで鐘馗の部屋に置いて行くようになったし、彼の朝の支度なども昔以上にテキパキとこなしていく。

「跋難陀、アレは何だ」

鐘馗は上着を羽織りながら、部屋の扉付近を指差した。
跋難陀がその方向を見ると、部屋に閉じ込めたはずの猫がぽつんと座っている。

(えっ‥いつのまに!)

「あ、あら。部屋に置いて来たのに‥」

跋難陀は慌てて猫を回収しに行くが、猫は素早く鐘馗の部屋の奥に移動してしまう。

(だ、だめだってば‥鐘馗に殺されちゃうわよ!)

猫が粗相でもしようものならば鐘馗がどう反応するのか、跋難陀は恐ろしくてたまらない。
慌てて猫を追い掛けた跋難陀だったが、その度に猫に逃げられてしまう。
しかしそのうち、跋難陀はある事に気が付いた。

「あ‥外に出たがっている?」

猫は逃げる度、部屋の中でも特に、庭へと続く障子の前に佇んでこちらを見て来るのだ。

(そうだわ)

当然、鐘馗の部屋には庭もある。
城主なのでそれは跋難陀の部屋の小さな坪庭とは比べ物にならないくらい立派で広い。
そしてその庭自体は鐘馗の私有空間であるが、実はそれは跋難陀が猫を見つけた中庭にも繋がっている。

「あ、あの‥鐘馗、この子外に出たがっているみたい。少し出してあげても良いかしら」

「構わぬが」

「ありがとう、じゃあちょっとだけお散歩させて来るわね」

簡単にお許しが出て、やったと跋難陀は心の中で叫んだ。
しかし猫を抱っこして障子を開け、外に出ようと勇んだところで、後ろから肩をポンと鐘馗に叩かれた。

「そなた一人では駄目だ」

鐘馗はにっこりと笑う。

(えぇ〜‥)

思わず跋難陀は心の中で舌打ちをしてしまう。
とは言え、龍乃の事件以来一人で外に行く事は許されていないため、大人しく鐘馗の言に従う。
跋難陀は猫を抱いたまま、鐘馗と並んで庭を歩いた。

「あら、歩きたいのね、下ろしてあげましょう」

鐘馗が見ているから、猫を城の外に逃げやすい場所に置く事も出来ない。仕方ないから跋難陀は猫を自由に歩かせ、成り行きに任せる事にした。
猫は跋難陀の心を知ってか知らずか、歩いては止まり、毛繕いをして、と歯痒いばかりだ。

「跋難陀」

歩きながら鐘馗が跋難陀を呼んだ。

「はい」

「そなたこの城に来てどのくらいになる?」

「え?ええと‥もう半年以上になるかな」

「その間に親しくなった者はいるか?」

「親しく?えーっと、私のお部屋付きになってくれた子かしら。この城で唯一お友達と呼べるのは彼女くらいよ」

「なるほどな‥」

「?」

どうしたのだろう。
妙に歯切れが悪くて、いつもの鐘馗らしくないと跋難陀は思った。質問も何だか要領を得ないし、そんな事を知って一体どうすると言うのだ。

「‥跋難陀」

「なあに」

その時だった。それまでのんびり歩いていた猫が突然猛スピードで跋難陀と鐘馗の目の前を走り抜けていく。

「何、どうしたの!」

跋難陀は慌てて猫を追い掛けたが、猫は一目散に中庭の方角に逃げて行く。
そして跋難陀と鐘馗が中庭に着く頃には猫は中庭から櫓を駆け上がり、そのまま遙か彼方へと走り去ってしまった。

(‥‥逃げた。‥‥‥でも、良かった‥)

突然の展開に呆然としながらも、跋難陀は猫を逃す事に成功して、安堵のため息をついた。

「に、逃げちゃったわね」

「心配するな、すぐに他の者に追わせる」

しかし跋難陀の目論見を知らない鐘馗は、中庭から一番近い建物に向かい誰かいるかと呼び掛け始めたものだから、跋難陀は慌ててそれを止めた。

「だ、大丈夫、元々拾った猫だもの。もしかしたら飼い主がいてそこに戻ったのかも」

「とは言えそなたの大事な猫なのだろう。瓜二つの。連れ戻してやるから心配するな」

「だ、大丈夫!よく考えたら私もいつまでこのお城に居るのかも分からないんだし、猫はいつか落ち着いた時に飼うわ」

鐘馗の親切心には感謝だが、猫を連れ戻されるなど、とんでもない事だ。
跋難陀は必死に鐘馗にそう言い、何とか追手を差し向けるのを止めてもらった。

「まぁ‥そなたがそう言うのならば。猫はまた飼えば良い」

(危なかった‥)

跋難陀ははぁとため息をついた。
櫓からどこまで猫が逃げたのかまでは跋難陀には確認出来ないが、もうこれ以上自分の目で行方を追う事は難しいし、猫を難陀たちが無事に回収してくれる事を祈る他ない。

ミッションをクリアして、帰りの跋難陀の足取りは軽かった。

「そういえば鐘馗、さっき私に何を言おうとしていたの?」

跋難陀は鐘馗に尋ねてみた。
先程鐘馗に名前を呼ばれて返事をしたものの、猫が走り出したのでその後鐘馗が何を言おうとしていたのか、跋難陀は聞きそびれてしまったのだ。

「‥いや、何でもない。気にするな」

しかし鐘馗は前を見ながら歩いたまま、そう返した。

「そう?‥あ、そうだ鐘馗、私この後刺繍仕事があるから、あなたがお仕事に行っている間、自分の部屋に戻っていても良いかしら」

跋難陀は鐘馗に聞いた。
本当は、刺繍仕事は別に急ぎの用でもなかったが、猫の事で気が張っていたから自分の部屋でゆっくりしようと思ったのだ。

ところが、鐘馗の返答は意外なものだった。

「‥今日は、仕事の合間に頼みたい事がある。悪いがそれまで、余の部屋にいてほしい」

「あ、‥はい。分かったわ」

そう返事して、跋難陀は鐘馗が公務へ行くのを見送った後、言われた通り鐘馗の部屋で待機した。
部屋に一人きりでいても特にやる事もないから、お茶を淹れて飲んでみたり、書庫の本を整理したりして時間を潰す。
そして本を数冊トントンと机に乗せて揃えながら、跋難陀はあれ、と思った。

(何か、ヘンじゃない?今まで鐘馗が私が部屋に戻るのを止めた事ってあったかしら)

元々鐘馗の世話をする時間以外は自室に帰っていた跋難陀だったが、最近は鐘馗に色々用事を頼まれたり、二人で話し込む事もあったから、なし崩し的に夕方まで鐘馗の部屋に滞在しっぱなしというスタイルにはなっていた。
しかしそれでも跋難陀に用事がある時は、鐘馗に断りを入れて跋難陀は自室に戻っていた。
そして鐘馗がそれを拒んだ事は‥‥‥今まで一度もなかったはずだ。
もちろん公務の途中に用事を頼まれる事自体は有り得ない話ではないが、それでも何だか跋難陀は‥違和感を感じた。

(でも本当に何か用事があるのかも知れないし‥少し待ってみようかな)

跋難陀は鐘馗のいない部屋で、部屋の掃除をして時間を潰しながら、鐘馗から何かアクションがないかを待つ。‥しかしそれから半刻経っても、誰かが部屋に入ってくる事すらなかった。

(まだ午前中の公務が終わる時間ではないけど‥何だか胸騒ぎがするわ)

跋難陀はすくっと立ち上がった。
‥‥何故だか、嫌な予感がする。

(自分の部屋に一度、戻ってみよう。何もなければもう一度ここに来れば良いんだし)

跋難陀は部屋から廊下に頭だけ出して、きょろきょろとあたりを見渡した。‥やはり人影も見当たらないので、跋難陀は自分の部屋まで歩いて戻る。
そして部屋の扉を開けて、いつものように波を呼んでみる。
‥しかし、彼女からの返事はなかった。

(あれ、返事がない。波はどこかに出てるのかしら)

午前中のこの時間ならば波は大抵跋難陀の部屋にいて、掃除などしている事が多かったが、跋難陀の呼び掛けには誰も応答しなかった。

誰もいないのかな、と思いながら跋難陀は部屋に足を踏み入れた。

しかし、次の瞬間目の前に広がった光景に‥‥跋難陀は自分の目を疑う。

「え‥。なみ‥?」

部屋の中央に、波が真っ白な顔をして部屋に仰向けに倒れているのが見えた。
近くには何かの薬瓶が蓋を開けられたままごろんと落ちていて、畳には液が溢れていた。
そしてそんな波の隣にゆらりと立ちすくみ、こちらを見たのは‥‥

「香椎‥!」

香椎だった。