第三部第十一章 雷




鐘馗と蛍見物で訪れた城の敷地内にある別邸にいる跋難陀は、着物の袖で涙を拭いながら、眠る鐘馗に衾を掛けた。
褥も何とか鐘馗の身体に敷こうと奮闘したが、体格差でやはりそれは難しかった。
そうこうするうちに‥鐘馗が目を覚ました。

「‥跋難陀」

「あ、ごめんなさい、起こしてしまって‥。寒いからもう少しこちらに‥」

褥にもう少し身体を乗せるように鐘馗に促すと、鐘馗はそれに従い跋難陀の近くまで寄って来てくれた。
跋難陀は鐘馗に寝具を譲るつもりで床側に後退したが、手を伸ばした鐘馗にぐいと腕を掴まれ、元の位置に戻されてしまった。

「風邪を引く」

寝具は確かにそれなりの面積なので、二人で使っても十分な広さがある。
しかし男女で一つの夜具に寝るなど、さすがに跋難陀には抵抗があった。

「安心しろ、泣き腫らした女に迫ったりはせぬ」

鐘馗は瞼を伏せ、そんな跋難陀の心を見透かしたように笑う。
それで跋難陀も観念して、鐘馗の隣に横たわった。
と言っても鐘馗と夜具を一つにするなど、やはり落ち着かない‥。
ふと跋難陀が鐘馗に目を遣ると、彼の首元や手にあちこち引っ掻き傷が出来ているのが見えた。
先程、跋難陀が暴れた際に出来た傷だろう。

(怪我、させてしまった‥)

そもそもの悪人は鐘馗の方なのに、その傷を見るとどうしてだか跋難陀の心は罪悪感でちくちくと刺激された。

(‥‥綺麗な顔)

跋難陀は続けて鐘馗の顔に視線を遣った。
鐘馗も跋難陀に気付いて‥こちらを見ている。

「‥夜が明けるまでまだあるぞ」

鐘馗はそう言うと目を閉じた。
跋難陀も、こんな状況で寝られるのかと思いつつも目を閉じた。
しばらくして再び鐘馗の寝息が聞こえてくる。
跋難陀は、目が冴えて眠れなかった。
そのうち、外からサアアと雨が降る音が耳に響いて来た。

(‥雨が降り始めたんだ。帰る時にも降っていたら嫌だな)

そんな事を考えながら雨音を聞いていると、不思議に心地良くなる。
いつのまにか跋難陀もうとうと眠ってしまった。



「ドーン」



しばらくして、激しい雷の音で跋難陀は目覚めた。
驚いて上半身を起こすと、激しい雨の音と共に二回目の雷が落ちる音がした。

「きゃっ」

ズガーンという爆音に思わず跋難陀は耳を塞ぐ。
跋難陀よりも先に起きていたのか、隣にいた鐘馗は跋難陀のその姿を見て立ち上がり、障子を開けた。
‥‥いつのまにか雨がものすごい勢いで降っていた。
同時に奥に控えていた使用人が慌てて出て来て、雨が降り込まないように雨戸を閉めてくれた。

もう早朝らしいが、部屋の中は雨戸が閉められたために真っ暗になる。
鐘馗は使用人が持って来てくれた上着を肩に羽織り、跋難陀の横に座った。

「雨が止むまで、ここで待たねばならぬな」

鐘馗は頬杖をつき、ふぅとため息をつく。
その間にも三度目の雷が落ちた。今度は城の庭のどこかに落ちたのではないかと言うような音で、雷に当たった木が割れるメリメリという音までする。
跋難陀は衾を被って鐘馗の側ににじり寄った。
それを見た鐘馗は口をぽかんと開ける。

「‥‥雷が怖いのか?」

「‥‥‥」

跋難陀は黙っている。沈黙が返答だ。
雷使いの優鉢羅がいたら笑われたかもしれないが、跋難陀だってこんなに間近で雷の音を聞くのは怖かった。

「あなたは怖くないの?」

「別に」

こともなげに言う鐘馗だが、虚勢ではなく本当にそうらしい。
四発目、五発目の雷にも鐘馗は特に動揺せず、明かりをつけて本まで読み出した。

(つ、つよ‥)

雷はやはり庭先に落ちているらしいレベルの音だ。男だから怖くないと言うものでもないだろう。
これが例えば摩那斯だったらうわぁとか言ってビクついていただろうに、と跋難陀は思った。
跋難陀は隣の鐘馗をチラリと覗き見る。
悔しいがこういう時に平然と出来る鐘馗をちょっとかっこいいと思ってしまう。
そして奥からきゃーという小さな使用人たちの声。
どうやら屋敷の他の雨戸を閉めるのに、恐怖で右往左往しているらしい。

「全く‥」

鐘馗はため息をついてパタンと本を閉じて立ち上がり、すたすたと部屋を出て声のする方向へ歩いて行った。

しばらくはそのまま一人で部屋にいた跋難陀だったが、再び落ちたズガーンという雷の音に怯えて、鐘馗を探して部屋を出る。
跋難陀が何となく声のする方に歩いて行くと、裏口の近くで何やらやり取りをする人影を見つけた。鐘馗と使用人たちだ。
いけません、上様のお手を煩わすわけには‥と恐縮する使用人たちの近くで憮然と雨戸を閉める鐘馗の姿が、跋難陀の視界に入ってきた。

「キャーキャーと騒がしくてかなわぬ。誰も咎めぬ故、そなたたちももう奥に控えておれ」

最後の雨戸をスパーンと閉め、鐘馗は使用人たちを下がらせた。
その後柱の陰からおずおずとこちらの様子を伺う跋難陀に気が付き、近寄ってきて鐘馗はニヤリと笑った。

「ああ、そなたも雷が怖いのだったな。主人に纏わりつく犬のようで、可愛げがあるぞ」

鐘馗は跋難陀の頭をよしよしと撫でる。
跋難陀はカアと赤くなり、バカにした物言いに反論しようと息を吸ったが、戻るぞ、と鐘馗に手を引かれて思わず言葉を引っ込めてしまう。

(手、手‥繋がれた‥)

子供のように鐘馗に手を繋がれて部屋まで連行される事を、悪くないと思ってしまう自分が憎い。
鐘馗に手を引かれて彼の後ろ姿を眺めながら、どうしようもなくときめく自分がいて、恋はこんな風に人を馬鹿にしてしまうのかと‥跋難陀は情けない気持ちになる。

「こんな事になるならば夜のうちに戻っておけば‥」

部屋に戻ってそう言いかけて、跋難陀ははっと口をつぐんだ。
そもそも思いがけずここで夜を明かす事になった原因は自分にあるのを思い出したのだ。

「あ‥入浴出来ないのは辛いわね。雷さえ落ち着けば、私濡れてもいいから走って自分の部屋に戻ろうかしら。傘を持ってあなたを迎えに行くわよ」

跋難陀の言葉に鐘馗は黙って隣の部屋を指す。

「湯ならばある」

「え?」

「ただしばらく使ってないのでな、先程雨戸を閉めた時に、控えの者たちに使えるようにしろと伝えてある」

そなたから先に使うが良い。と鐘馗は言う。

「そもそも、戻ると言ってもまだそなた一人では城に戻れまい」

「そ、それは‥」

跋難陀は言い淀んだ。確かにここには鐘馗に連れられて来たため、城までかなり歩くであろう帰り道には自信がない。

「でもあなたこそ、仕事はどうするの?」

休戦中とはいえ、鐘馗には基本的に毎日執務がある。

「今日は大した議題も無い。香椎が余の代理として適当にやるだろう。城には既に使いを遣ってある故、急ぎの用があれば誰かがこちらまで来る」

という事はこの豪雨と雷の中、使用人の誰かが城まで使いに出されたという事か‥。跋難陀は使用人に同情した。

「奴らはそれが仕事だ。何故余やそなたが雨に濡れねばならぬ」

このような状況で自分が城に戻るという選択肢はないようだ。しかし鐘馗はそんな事は当然だと言う。

(雨戸を閉めたり優しいところがあるかと思えば、こういう帝気質は変わらないのね)

跋難陀は一人で帰るのは諦めて、ストンと鐘馗の横に腰掛けた。
そのうち、湯の準備が出来たと使用人が呼びに来たので、鐘馗の言葉に甘え跋難陀は先に入浴へ向かう。
湯殿は聞いていた通りしばらく使用されていない雰囲気があった。
きちんと手入れをすればさぞ風流なところだったろうと惜しまれるつくりだ。
それでも入浴が出来るのはありがたい。跋難陀はさっと入浴を済ませ、肌につける衣だけ使用人用の予備の物を借りて着替えた。
跋難陀の後には鐘馗が入浴する。
その後は簡単な朝食が準備されたのでそれを鐘馗と二人で頂いた。
朝食と言っても元々宿泊の予定でなかったから、果物などのありあわせではあったが。
そして昼前になってようやく雨が止み、二人は城へと戻った。

城に戻ると、門の入り口で鐘馗と跋難陀を迎えたのは伽羅だった。
伽羅は鐘馗に気がつくと上様、と走って駆け寄ってきた。鐘馗は同じ城内でわざわざ出迎えなくても良いとだけ話し淡々とした様子だった。

「ご公務を上様が休まれるなど初めてですから、何かあったのではないかと‥」

「連絡していた通り、雨雷で休んでいただけだ」

そう言って鐘馗は伽羅をその場に残したまま城の中に入っていく。跋難陀も鐘馗に促されて彼と一緒に歩き出した。
と、その瞬間跋難陀は足元にあった小石に躓いて転びそうになった。
すると隣にいた鐘馗が咄嗟に腕を差し出し、跋難陀の身体を支えた。

「怪我はないか?」

「あ、ありがとう‥大丈夫」

跋難陀は思いがけず鐘馗に抱きすくめられたような体勢になるので、思わず顔が赤くなった。

鐘馗はそのまま午後の公務に赴き、跋難陀も一旦自分の部屋へと帰る。

「跋難陀様〜おかえりなさいませ」

部屋では波が待っていた。

「まさか朝帰りなさるとは‥!私も予想しておりませんでしたわ」

どうやら波は、跋難陀が朝帰りしたのを、鐘馗とどうにかなったからだと思い込んでいるらしい。

「ち、違います、雨と雷で外に出られなくてやむなく‥」

跋難陀は慌てて誤解を解こうとしたが、そうすると昨夜跋難陀が大暴れした事件まで話さなければならなくなる。
それで言い淀んだ跋難陀を見て、波は照れなくても大丈夫ですわ〜と満面の笑みだ。

「惹かれ合うお二人がなるようになったのは自然の流れでございます。これで跋難陀様の身分も安定、こんなに喜ばしい事はありません」

一人で盛り上がる波を落ち着かせ、鐘馗とは何もなかったという事を納得させるのには時間がかかった。

「そうでしたか、私が期待するような事は何もなかったのですね‥。でも!お話を聞く限りやっぱり上様は跋難陀様を特別扱いなさっておりますね。跋難陀様、一緒に頑張りましょう」

ニコニコ顔の波を相手にだから、違うの、頑張らないしと一生懸命言っていると、あっという間に鐘馗の執務が終わり、跋難陀は鐘馗の部屋へと向かう時間になる。

跋難陀は部屋に戻った鐘馗の着替えを手伝った。
その最中、跋難陀が彼の肩のあたりに触れた時、鐘馗が小さく呻いた。

「あ‥痛い?」

「‥寝違えたな」

鐘馗は自分の手を肩に置いて触り、跋難陀の問いかけにそう返事をした。

(あ‥昨日床で寝た時‥)

寝違えたのは、きっと昨日跋難陀に付き添って床で変な体勢で寝たせいだろう。
これには、跋難陀もさすがに悪い気がした。
跋難陀は鐘馗を座らせて、痛むという肩のあたりをそっとさすった。

「どう、少しは楽になった?」

「ああ‥ところでこの香は梅花香か?」

「この香り?」

跋難陀は何の事か分からず空気中をクンクンと嗅いでみた。

「そなたはいつも良い香りがするな」

その台詞で、香りとは跋難陀から発せられるものの事を指すのだと分かった。

「そ、そうかしら。でもええ、梅花香よ。昔から好きな香りなの」

いつもいい香りがするのは鐘馗なんだけど。と心の中で跋難陀は思った。

「‥‥そなたと初めて会った時も、同じ香りがした」

肩をさすられながら、鐘馗は跋難陀を見上げた。

(覚えていたんだ、あの時の事を‥)

跋難陀は驚いた。
初めて鐘馗が跋難陀と出会ったのは隣国での東宮即位式の頃だ。
あの時に自分と会った事、そしてどうやらその時にも自分から同じこの香りがした事を、鐘馗はしっかりと覚えていた。

「あの時の女がまさかこうして余の側に来るなど、当時は思いもしなかったがな」

分からないものだな、と懐かしそうに鐘馗は笑う。
それを受けて跋難陀も、私だってと笑った。
二人の間に流れる空気は、昨夜の出来事をきっかけに、以前よりさらに柔らかいものへとなっていた‥。

その時、部屋の外から誰かの声がした。
入れと鐘馗が促すと、中に入ってきたのは香椎だった。

「兄上、先程の件ですが‥」

二人のやり取りから察するに、どうやら引き継ぎ忘れがあったらしく、香椎が資料を持って補足しに来た様子だ。
そしてその件についてなのだろう、資料に目を通した後鐘馗は自分の目で見に行く、と部屋を出て行った。

「夜には戻る」

鐘馗は出ていく際、跋難陀にそう声をかけた。

「私もこの資料を精査した後、合流致します」

香椎は鐘馗にそう伝えて部屋に留まった。
そして鐘馗の気配がなくなったのを確認してから、香椎は跋難陀の方へ向き直した。

「あー‥跋難陀?」

小声で跋難陀を手招きすると、コホンと照れ臭そうに彼女から目線を逸らして香椎は口を開いた。

「何?」

「率直に聞くが、そなた兄上と寝たのか?」

跋難陀は衝撃のあまり持っていた鐘馗の着物を思わずドサっと床に落とした。

「な、な、な何ですって‥!?今何と‥」

「いや、久々にそなたたちを見たら随分と良い雰囲気だったからな‥」

「ば、バカなこと言わないで!何も起きてないわよっ」

床にしゃがみ込んで落ちた着物を慌ただしくかき集めながら跋難陀は叫んだ。
朝帰りした事で二人の仲を疑っているのは波だけではなかったらしい。

「そうか、まだ何もないのか。ま、せいぜい頑張るのだぞ。そなたが生き残るには兄上に気に入られるくらいしか道がないのだからな」

香椎はそんな風に笑いながら、去っていった。

その後跋難陀は自分の部屋に戻り、夜になってから再び鐘馗の部屋へと行った。
そして彼の夜食を運び待機していると、タイミング良く鐘馗が戻って来た。
鐘馗は部屋の中に入り、食膳の前に座る。跋難陀も、最近はいつもそうしているように隣に座り、鐘馗と共に食事をした。

「ねえ鐘馗、そう言えば伽羅って昔からの部下なのよね?」

自分用の膳にある胡麻豆腐を突きながら、跋難陀は何気なしに鐘馗に尋ねた。

「ああ」

「彼女って何歳くらいなの?私より年上なのかしら」

「さあ」

(‥年齢、知らないんだ)

「伽羅の事ならば、香椎に聞いてみるといい。知っているだろうからな」

そう言うと鐘馗はお茶を求めて跋難陀に空の湯呑みを差し出した。

「何故香椎が伽羅の事を知ってるの?」

湯呑みにお茶を淹れながら跋難陀はそう尋ねる。

「それは惚れた女の事‥」

その瞬間ぴくっと鐘馗の動きが止まる。
彼は口に手を当て、しまったと言う顔をした。

「口を滑らせたな」

(え?惚れた女‥て事は)

跋難陀は鐘馗の言葉に目を見開く。

「あの‥じゃあ香椎は伽羅の事を?」

「‥他言は無用だぞ」

鐘馗は跋難陀に口止めをした上で、弟が伽羅にどうやら惚れていると言う事を教えてくれた。

「そ、そうだったのね、私てっきりあなたたちにそういう‥そう言う話はないものとばかり‥」

「‥‥この城にも若い男と女が数多いる。別にそなたたちの住む世界と何も変わらぬ」

香椎と伽羅の事を聞いて初々しそうに顔を赤らめる跋難陀を見て、鐘馗は可笑しそうに笑った。