はぁーあ、新年から市川海老蔵と長男の勸玄君のドキュメンタリー見てたんですが、うちのお母さんが勸玄君好きで
「ねえねえカンカンたらかぅわいいわよねー」
ぐふぐふ言いながら見てるそばで、
*カンカンとは勸玄君の公式な愛称らしい
(あぁ、もしも秋水タンが現実世界に生きていたらこんな感じなんだろな)年もこのくらい?和服姿もこんな感じなんだろな
って思いながら「うふふ(秋水ったらほんとに)かわいいよね」
って返した私です
あと聞いて欲しい。
私のスマホの写真アプリ、個人を識別してフォルダ分けしてくれる機能があるんですが
最近とうとう徳叉迦(しぐれ)を人として識別し始めた
幸せです
さて
去年行った京都滋賀奈良聖地巡礼の旅レポです
まず最初のレポは三十三間堂
過去にも行って記事にしたけど、もう一回三十三間堂に行ってきました。
ちなみに三十三間堂は堂内撮影禁止のため、当記事はヒストリア画像と現地で必死にしたためたメモでお送りいたします
ではでは改めておさらい
三十三間堂は正式には蓮華王院 三十三間堂といいます
後白河上皇が今から850年程前に建てました
なんで三十三間堂というかといいますと、
ご覧のようにお堂の柱の間が三十三間あるかららしいです
そしてなんで「三十三間」なのか?
それは仏が人々を救うために三十三の姿に変化するからだそーです
こんなにバリエーションが
竜にも変化してるー
そして、三十三間堂のメインといえば千体仏というたくさんの仏像が有名です
1001体だそーです!メイン仏の中尊(国宝)と合わせて1001体てことかな?
よくこの千体仏はひとつひとつ顔の作りが違うとか、平安時代に作られたのと鎌倉時代に作られたのとでは表情が違うとか、仏像に作者のお名前が貼ってあるとか言われるらしいけど
私はこの千体仏よりも、その前面に配置されている二十八部衆のが好きです
まーもともと寺社仏閣巡り始めたきっかけが龍マですしおすし
二十八部衆の中には龍マファンにはお馴染みの
ヒィー尊い〜
難陀龍王と娑羯羅(裟伽羅)龍王がおりまーす
過去にも行ってた三十三間堂にまた行くとかどんだけ好きなのよって感じなんですが、
行きたかった理由はこれ!
そう、2018年夏に仏像の大移動があったからなんです
三十三間堂、度重なる火事や修復を経て、仏像が建立当時とは違う配置になっちゃったそう。
明治か大正かその頃の配置はこうだったみたい
雷神の位置‥センス‥
あっちこっち移動してる間に位置が変わるって。ハハ、歴史あるある
その並びをなるべく創建当時のものに近づけようとするのが今回の取り組み。創建当時の並びは不明ですが、いろいろな文献や五行説などから、当時の並びを推察して再配置したのが今回の大移動です
今回大きく変わった配置は二十八部衆のうち大弁功徳天と婆藪仙。それから両端の風神雷神。
風神雷神は左右が逆になりました!
こうなりました
この風神雷神なぜ場所が入れ替わったかというと、
①風神雷神の雲の尾っぽのところ、本来は中尊(真ん中のどでかい仏像)の命を受けて真ん中から外に飛び出していく形になるべきところを、逆の真ん中に向かっていたため
②俵屋宗達の風神雷神図屏風は三十三間堂の風神雷神図を見て描いたと言われてる(そうなんだ!知らなかった)ことから、左右入れ替わったそうです。
そして今回、二十八部衆の移動に伴い、像の名前がいくつか変わっています
そしてこの名前が変わった仏像の中に、みほな先生がツイッターで言及していた伊鉢羅もいました
そう、あの優鉢羅疑惑の像
(以下三十三間堂でめもってきたメモ)
四龍神の一尊 伊鉢羅龍
当尊は、「伊羅鉢旦羅(イラハツタラ)、伊羅跋羅(イラバツラ)」等インド語の音写で、二十八部衆を説く千手経の他、仏本行集経などに、②娑羯羅や③難陀龍等の“龍族‘’と共に登場します。
尊像左手の蛇形は、龍衆のシンボルです。
今回の配列再編(平成30年7月)までは別の尊名でした。しかし、中世の「千手尊二十八部衆画像」に伊鉢羅の尊名で牡蠣殻の様な眉や髪型を持つ像が描かれているのです。これらの理由により尊名が回復されました。
再編では、蛇神の④摩喉羅伽を加えて‘四龍’を対置、インド語の〈稲妻 Vajra ヴァジラ〉に関わる風雷神・仁王と並んで風雨、天候をあやつる、いわば最強護法神‘いなずま配列’を具現しました。
四龍の表現は、個性的で鱗虫の特徴や迫真性が際立っています。
伊鉢羅
①槌(音)は、巨富による復興や殖産のシンボル。
蛇形も、中国で龍(水)神となり、富財、豊穣、風雨、護法の象徴に
②中世の「千手尊画」には難陀龍像と同様の魚族を示す口元で表現される
③手や脛甲にも、魚骨や蛇腹に似た表現をする
最強護法神いなずま配列‥厨二心くすぐるフレーズすぎる優鉢羅も雷属性なのはなんか関係あるんですかっ
また今回仏像の位置だけではなく、名前もいくつか変わってました伊鉢羅も以前は他の名前でした
仏像の名前も長い歴史のうちに勘違いや物忘れで変化してったのでしょう
古き良き時代あるある
伊鉢羅って名前も、優鉢羅ウハツラえぇーとウィハツラええーとゥイハツラ??イハツラだっけ??うんイハツラだよね??漢字は伊に‥しとくか‥
って感じで変化しちゃったんだろうな
そして伊鉢羅をメモった時点でなぞの使命感にかられてしまい、名前変わった像の新旧名と配置場所もメモってきました
右の拳酷使しすぎてもう‥腕が、腕がいかれちまったよぉ
配列再編後の二十八部衆と風神雷神
〈お堂の右端から〉
風神
那羅延堅固
難陀龍王
摩睺羅
緊那羅(旧称 神母天王)
迦楼羅
乾闥婆(旧称 緊那羅王)
毘舎闍(旧称 乾闥婆)
散支大将(旧称 満仙人)
満善車鉢(旧称 毘楼勒叉)
摩尼跋陀羅(旧称 金大王)
毘沙門天
提頭頼吒王(旧称 五部浄)
〈中尊を囲む四体↓〉
帝釈天
大弁功徳天
婆藪仙
大梵天王
毘楼勒叉(旧称 東方天)
毘楼博叉
薩遮摩和羅(旧称 摩醯首羅王)
五部浄居(旧称 金色孔雀王)
金色孔雀王(旧称 散脂大将)
神母女(旧称 摩和羅女)
金毘羅
畢婆伽羅
阿修羅
伊鉢羅(旧称 満善車王)
裟
密迹金剛士
雷神
以前の配置図はこちら
以前も書いたけど、三十三間堂はアクセスもよく境内も歩きやすくて素晴らしいゆったりいつまでも滞在できそうですよ
トイレも綺麗だし、コインロッカーもあるの
ちなみにお堂出口には以前記事にした千年以上前のお菓子、清浄歓喜団を売っていました
あ、あとね。。
もし三十三間堂に来たらね、良かったらここ見ていただきたいってとこがあるんですが
ここ、太閤塀っていいます
実は三十三間堂のお隣は豊臣家ゆかりのお寺方広寺があり(大阪夏の陣のきっかけとなる方広寺鐘名事件があったとこ)、その境に建てられたんです。
いや、ただの壁でしょって思うかもだけど、
これは豊臣秀吉が建てた塀なんです
画像の上部の瓦には豊臣家の家紋、桐の花がかたどられておりますかわいい
昔は三十三間堂、この方広寺の境内になってたんだって
そのため方広寺と三十三間堂を区切るために、この塀は建てられました
そして、よく見るとこの塀、白い横線が5本入ってます
画像ではちょっと分かりづらいですが五本入ってます
この線の数が、そのお寺や家の格式を表しているそう
線の数は最高五本で、これは当時勝手に入れることはできません
現代では一般のおうちでもやろうと思えば入れることはできます
門跡寺院(皇族が住職になってる寺)と皇族のおうちしか認められなかったそうです
三十三間堂は門跡寺院ですから、この線を入れることができたんです線もマックスの五本なのでお寺の格の高さが分かります
京都ではこのような塀よくありますが、このように線が入った塀を見ることができたら、ここは格が高いんだって思って間違い無し‥のようですよ
一見地味なので観光に来た人にはほぼスルーされるこの太閤塀。歴史的価値があります
三十三間堂に来たら、ぜひ見てみてください