『月と狼』
「あれっ、どうしたの?こんな時間に」
夕食を終えてしばらく経った頃、玄関のチャイムが鳴ってドアを開けると彼が苦笑いを浮かべて立っていた
「べつに用はねぇけど、バイトの帰りに通りかかったら狼の遠吠えが聞こえたから気になって」
「あ…」
彼が言う通り、今夜は綺麗な満月が夜空に浮かんでいるから
「そうなの、さっき変身したお母さんが外に出ていっちゃって。お父さんは危険を察知して出版社の人と飲みに行ったきりだし、弟はもう寝ちゃったから寂しくって。ご飯は?簡単な物で良かったら作るけど」
「いや、減量中だから遠慮しとく」
「そっか、じゃあお茶でも入れるね」
シンと静まり返ったリビングに冷たい麦茶を持って行くと、彼は窓辺で空をじっと見つめていた
「それにしてもでかい満月だな」
「たしかに。これじゃあ、お母さん朝まで帰らないかも…」
「おまえは?月を見てもなんともないのか?」
「うん、全然へいき。わたしはお父さんの血を多く受け継いでるから」
あっ、でも
「なんだよ?」
「えっと、だいぶ前に丸い物を見ただけで狼の耳としっぽが生えて来た時期はあったの」
「はあ?いつの話だよ、それ」
「ほらっ、中学の臨海学校でお母さんに噛まれちゃって…」
「えっ?」
しまった
当時は人間だった彼が、あの事件の真相を知ってるはずはないんだった
そう、あれはわたしが中学に通うようになって間もないころ
人間の男の子に恋をしたのが気に入らなかったお母さんが、狼に変身して彼に噛みつこうとして
「おまえが俺を庇って怪我をしたやつか?」
「その、なんて言うか」
「いいよ、わかってた…っていうか魔界人になってから気がついた。だいたい、あんなとこに狼なんかいるわけないしな」
そっか
そうだよね
「あのあと耳としっぽが現れるようになって、学校でみんなにバレないように隠すのにすごく苦労したの。今となっては笑い話なんだけどね」
「ぷっ、想像したら笑えるな」
「ひどい。でも、わたしにフサフサの耳としっぽがあったらやっぱり気味が悪いよね」
「さあ?見てねぇからわからないけど、意外と違和感ないんじゃねぇの」
「もう!」
ほんとは彼にも見られてるんだけど、おばあちゃまが記憶を消してくれて事なきを得たのを思い出した
あんまり考えたくはないけれど
あの時わたしの正体を知られていたら、いったいどうなっていたんだろう
「まあ、耳としっぽはあってもなくても構わねぇけど」
はい?
「適当なこと言わないで、あの時は真剣に悩んでたんだから」
「へいへい」
「!!」
ソファに座って麦茶を飲み干した彼のとなりで怒ったフリをした瞬間、大きな手が頬を包み込むように押し当てられた
えっと
このタイミングでキス?
「とにかく」
…じゃなさそう
真っ直ぐ向けられた真剣な眼差しは、むしろ怒っているようにさえ感じて緊張していると
「もう2度と俺のために危険なマネはするなよ」
深く息を吐きながらつぶやいた彼の表情は、なんだか泣くのを我慢しているみたいに見えてドキリとした
「ばーか、そんな顔するなよ。おまえに守ってもらってばっかじゃカッコ悪いって言ってるだけだ」
「そんな、わたしはなにも…」
言いかけた唇は冷んやりとしたキスで塞がれて
「俺も…狼になる前に帰るよ、またな」
「え!?ちょっと待って」
あっという間に部屋から出て行った彼を追いかけて行くと
「わっ!」
「悪い、大丈夫か?」
「う、うん」
玄関の前で急に立ち止まった大きな背中にぶつかって、思わずしがみついたわたしの耳を彼の掠れた声が優しくくすぐった
「めちゃくちゃ驚きはしただろうけど、嫌いになったりはしなかったと思うぜ。人間だった頃におまえの正体を知ったとしても」
「!」
振り返らずに帰って行った後ろ姿は、金色に輝く満月に照らされていつもよりずっと照れているみたいで
すごく
すごく嬉しかった
fin