芸人をやめてパン屋になるといふ告白ふかく酔ひの深まる 加藤孝男
桜桃忌と気づけば雨もしかたなし傘を傾げて川縁をゆく 広坂早苗
不機嫌なわれが点滅しておりぬ茗荷ぼっちをうっそりと食ぶ 市川正子
初夏の日を手に引きよせて窓の辺に釦をつける絹のブラウス 滝田倫子
地に低くはびこりつづく草に似て噂話は道にささめく 寺田陽子
昼ふけの山の湯に来てほろほろと傷みを言へば媼らやさし 小野昌子
先生は何を信じてゐますかと突如問はるる西日射す病室(へや) 升田隆雄
卯の花の季の至れば田水張る人がまだゐるたふとかりけり 麻生由美
自らの記したる文字の死にかけの蟲のごとくに蠢く夜や 高橋啓介
散りてよりかるがる枝をふるわする桜並木の下ゆくあれは 齋川陽子
せきれいが飛び去りゆける細き道葛の刈られて緑が匂う 齋藤貴美子
房総の雑木林のカタクリを目守(まも)りいし青年如何にいますや 松浦美智子
豊かなる時間(とき)といふものわが庭にありて二匹の蝶は浮遊す 久我久美子
朝刊の束を抱えて老夫はも走りて登る団地の坂を 中道善幸
ひとひらの花びら散れば支えあう力くずれて芍薬の散る 岡部克彦
猛る陽のさなか空までブランコを押して五月の真夏日にゐる 柴田仁美
そら豆の莢みずみずし購いて久方に今宵ビール酌むべし 小栗三江子
透明なコンソメスープに姿なきわたしも溶けていそうな春夜 岡本弘子
偶然の出会いと思うさりながら「赤い糸」なり老妻(つま)を介護す 吾孫子隆