短縮版です。


【作品特集】


朝焼けに冷気を吸いこむ一息に噎せ返りつつ肺腑を清める


まっさらな真白き雪にくさめする残余の生の人間われは


泣きながら笑うことあり亡くなりし猫の仕草を妻の語れば         矢澤保





長き病にいかほどの薬飲みたるやかっさりと軽き骨を拾えり


手に抱く骨箱の上に物を乗せ吹雪にまみれ行く人あり


さとうとみこと大きく書きし傘差せばわが物忘れにわれは見らるる     佐藤鳥見子





姑娘(クーニャン)の自転車の列通る時天さかる支那の里山を思ふ     


艶やかな錦繍の峰見放くれば我れも束の間貴人となる            


白むく毛のボルゾイ三頭操りて首は飄々と坂を登り来             高橋和弘






声失いて十年最後の往診に君の嗚咽は声になりゆく


町内会の揃いの法被も色褪せて粋千駄木は行きずりの故郷


三月の群衆どこか寄る辺なく未熟な春を分け合い漂う             今川篤子






灰色のテトラポッドのごと積まれ路肩の雪は海を知らない


生と死のあわいを生きている義兄の背中を誰も押してはならぬ


風受けて末枯れしセイタカアワダチソウ命を持たぬ軽さに揺るる      岡本弘子






まいったね六十過ぎたこの俺に養子に来いと恩師の夫婦


船に乗る長期の仕事がまたあるやも介護となれば何処へも行けない


財産も土地も家も皆やるよ今更そんなこと言われてもなあ           西一村





人去りし水辺の森の暮れゆきて今トロッコの少年となる


外出(そとで)から帰らぬ娘まあよいか庭の目白もさえずり交わす


一億総なんとか騒(ぞめ)くラジオを消す輝けなんぞ大きなお世話      広坂早苗






立つことは自然に逆らふことならむ安からなるものみな横たはる


保証人になつてはならぬと繰り返し言ひたる父の来し方を聞けず   


煙などまつたくあがらず高性能の八事の丘の野辺の送りは         柴田仁美






火の点かぬ百円ライター脇にやり三本ばかりマッチ擦りたり


一族の墓をひとつに纏めたと細き声する誰と知らねど  


地に沈む雨水が海に着くまでの苦しき旅を思ひて眠る           久我久美子





〈物忘れ外来〉前では人はみな目をそらし俯いており


突然に「てんたう虫のサンバ」など唄う人あり陽気な病棟


手首より老けていくらし腕時計ゆるめ涼しき風を通しぬ          大野景子









作品Ⅱ 人集



黄泉の国われは知らねど夕さりの空は黄丹(わうに)の色に変はれり     田浦チサ子


「工事車両出入口」には顔見えぬ人が警備す風吹く中を             広野加奈子


スパンコールの光りを分散させながら街を歩めば春が寄りくる         宇佐美玲子


きさらぎの雪見障子を風鳴らし座敷のわらしの訪なふごとく          阿部清


掻い堀りの七井の池はひとつらに黒々として沼と化(な)りけり        青木春枝




作品Ⅲ 月集



腕に抱くことなき君が生きていた証として減るわずかな体重          浅井美也子


春の水暗渠の前でひとしきり高き音立て消ゆるが寂し              中井溥子


さぼてんに話しかければよろこぶと誰が言ったかじっと見つめる        高木啓


新しいマグカップとか増えてきて私ではない私も増える              広沢流