マチエール

この先を住むことのなき町があり豆腐屋などを懐かしむのみ   後藤由紀恵

海を見に行きたかったなよろこびも怒りも棄てて君だけ連れて   染野太朗

乗越しの券売機からこぼれ出す十円硬貨と空の薬莢   小島一記

驟雨過ぎ蝉の鳴かざる駅前に出でて口座をひとつ作れり   富田睦子

ジャイアンに関わりもたぬ吾子ゆえにドラえもん来ず新学期なり   木部海帆

夕暮れに息をしていたわたくしの生活に潜むセロリという音   小瀬川喜井

ちょっと気が遠くなるほどきつかったラジオつけないラジオ体操   山川藍

わが夫の何とはなしに置くバナナ2本がおのおのの方へ向きたり   佐藤華保理

ただ待てば時たつと知れば新聞も読まずひたすら床をながめる   加藤陽平

陽炎の立つアスファルトにザリガニのあてなく逃げて路上の傷めく   宮田知子

鼻をかむ刹那たしかに鼻紙は小さき声で待てと叫びき   大谷宥秀

「こころ」という名前の少女が読んでいる「ココロ屋」という本が気になる   倉田政美

かの夏の女王はわれに鱗粉を遺したるまま露となりたり   稲本安恵

またひとのひとり去りゆくビューローに重なるなにか白い面倒   荒川梢

フェルメールの光と影に描かれたワインの味を私は知らない   小原和

<十八人集>
ああ疲れた今日の私の大仕事足指の爪を切るということ   関本喜代子

階級章自らはぎて帰郷せり出征兵士たりしわが心   小林正一

左足の二番目の足より踏み出すといふ蟻見てをり癌治療終へて   田浦チサ子

心なしか蓮の花茎ゆれ出だし漲り見せて今咲かんとす   齊藤愛子

公園のラジオ体操それぞれに木陰選びて腕回しおり   馬場ミヨ子

<作品2>
いかづちの轟く余話は戸を閉し身を縮めつつ一人聞きをり   三浦トシ子

ただ一両残れる電車をマニア撮る「青ガエル」号と駅に呼ばれて   平林加代子

舗装路に微かに動く蝉の羽根身の十倍を蟻の曳きゆく   原島八重子

音たかくバイクゆく真夜どの家も人らは目覚め怒りておらん   稲村光子