<マチエール>
ときおりはわが枕辺の夢としてのっぺ汁など作る祖母なり   後藤由紀恵

加点より減点少なき人らなり話の弾まず夫とその人   富田睦子

君の手が今まで触れてきたもののすべてに触れなければならない   染野太朗

坂の上の神奈川近代文学館女子三人に日陰をゆずる   小島一記

しゃちほこに乗ったし猿回しも見たし靴は壊れたけどいい日だよ   山川藍

洗い髪にほのかに鉄はにおいつつ缶より飲める燕京ビール   米倉歩

積乱雲流されていく夕つ方給水塔はいつか飛び立つ   佐藤華保理

あのことをまだ知らざりしおとといの吾を見くだしながら歩めり   加藤陽平

ひさびさにあかるい五時の帰路につく夕暮れをさ掬ってみようよ   荒川梢

工学部ばかりの学生講師との会話のネタはアニメくらいだ   倉田政美

五メートル先で息する中年の女の貧乏ゆすり気になる   小瀬川喜井

雨雲にぴたりと蓋され雨が来る予感に蒸されたまま風を待つ   宮田知子

本日も律儀なポストに入れたれば思い出したる誤字一つあり   大谷宥秀

靴ひもが解けて転ぶ両足が青空の下自由になった   小原和

<十八人集>
雷鳴のとどろくガラスに腹しろし心ゆるせる壁虎【やもり】と留守番   小出加津代

マスクから出ている瞳【め】しかわからないいつもゆく歯科の女医先生の顔   関本喜代子

道端にアップルミントの葉が香り林檎丸齧りしたくなる午後   相原ひろ子

お母さん手が熱くない?子を連れて蛍狩りせし遠き日浮かぶ   鴨志田稚寿子

もうこれで終はりにしませう駅前の伝言の文字今朝も消されず   大野景子

引潮の如くに孫ら帰りゆきこの静けさに犬を撫でをり   稲村光子

川底に鈍くし光る一つ石身を焼くほどの思想保【も】ち得ぬ   関まち子

紫の花の名聞かれ「あれよあれ」われの海馬の朝より弱し   飯田世津子

ふくらかに豊けかる 胎の仔のいく匹をらむ猫の骸は   平林加代子

<作品Ⅱ>

紫陽花の手鞠おもくす雨ふれば枝ことごとく前のめりしぬ   哘恵子

湧き上がる歓喜のごとしどよめける球場の上にのびる夏雲   正木道子

行く先を告げれば老いたる運転手「沢岡」だなと家号で言えり   佐々木剛輔

前を行く茶髪の若者分け目より若き命の黒髪の見ゆ   大石栄子

白桃をそっと掴みてゆっくりと手首ひねれば枝より離る   小川佐和子

夏服を痩せし形に直し終えなにか果敢無く吐息をつきぬ   橋本恵美子

お互いの染みある甲をみせ合って隣家の主婦とごみ出しの朝   岩本史子