大きな自然界の清めの後、新たな月が始まりました。急に秋の気配が深まりました。朝晩は肌寒いくらいです。さて、「たまむすひ」ブログ(http://www.putimiracle.com/ )から、いつもパワフルなメッセージを発信・配信下さっている、悦月さんからのメッセージです。共に太礼神楽 を学ばせて頂いています。多くの方が悦月さんのブログやメッセージに共感され、日々を営んで行く指針や気付き、勇気、自信・・・を頂かれています。宇宙からのメッセージを受け取り、お伝え下さる悦月さんは、しなやかで穏やかで、そしてパワフルに創造活動されておられます。笑顔も素敵。私も尊敬する女性のおひとりです。「10月のメッセージ」をお届け下さいましたので、こちらで転載させて頂きます。参考になさっていただければ幸いです。
10月のメッセージ(前半)
光陰矢の如し。
月日が過ぎ去るのがますます速くなっているように感じられます。
10月も例にもれずあっという間に過ぎ去るでしょう。
しかしながら時間の幻想がだんだんと崩れつつある今、電車が目の前を通り過ぎるのを見ているのか、走り去る電車のまわりの景色を見ているのか、というかたちの現象が起きてきます。
景色と電車とその風景の中にいるあなたは同一時空間の中にいるのですが、あなたの意識が目の前を通り過ぎる電車に向かえば、とても速いスピードで時間は去っていきます。
が、通り過ぎる電車を見ながらも、まわりの動いていない風景に意識をフォーカスしていると、ベールをはがしたうしろの世界が見えてきます。
これもいつものごとく例えで言っているのですが、走り去る電車とそこにそのままある景色とそれを見ている自分を同時に認識するという意識を持ちたいものです。
電車に乗っていると、景色が過ぎ去り、自分は電車と共に動いているので、すばやく移動しているとは思いません。
先ほどの、通り過ぎる電車と景色とそれを同時に認識している自分を意識するという状態は、そのまま電車の中にいてる自分とリンクします。
この例えはわかりにくいかもしれませんが、なんとなく感覚で感じてください。理屈を当てはめようとしないように。
電車を見ている自分と電車の中にいる自分が同時にいて、電車の中で時間と共に移動している自分や過ぎ去る風景、電車の外にいて、過ぎ去る電車と動かない風景、そしてそれらを一度に認識する感覚(視点というより感覚です)を今月は養っていただきたいと思います。
その感覚(知覚といってもいいかもしれません)はこれから先に役立ちますので、今から少しずつ身につけていってほしいと思います。
いったい何を言っているのかわけがわからんという方は、時間というものが固定化された変わらないもの、時計の時間に拘束されたものでないということを意識するようにしてください。
これからの私たちは,限定された時間から自由になっていくべきです。
時間から自由になるということは、限定された思考、意識からも自由になることですので、新しい流れに向かうには必要なことだといってもいいでしょう。
今までは、30cm定規の長さは30cmだったのですが、これからは1mmを半分にして、またその半分にして、と半分にし続けると永遠に半分にし続けていけるという認識の世界が開き始めていきます。
つまり30cmだと思っていた定規には無限の長さがあるのだということになります。
時間にもあてはまります。その他のことすべてにもあてはまります。
この先何年もかけてこの認識が定着していきます。
今はまだ始まりですが、入り口はすでに開いていますので、気づいた人はいつのまにやら(そう、いつのまにやら、なんです)そちらのあり方に関わっていることになります。
その世界では失うものはなにもないですから(本当は今までの世界もそうなんですけどね)、生み出すだけとなります。
でも実際は今の世界となにも変わらないんです。
ただ「足りないから持っていないから、得ようとする」意識から、「すべてはあるので、ただ自分が作り出せばいい」という意識が基盤の世界に移ります。
移るといっても、その認識に達した人たちだけがそこにいるようになります。
追記:
電車の例えで、もう少し適切な言い方は、過ぎ去る電車を見ながら、中にいる人たちや車内の光景を、その場にいるように見ているという状態、というのがいいかもしれません。
過ぎ去る電車の中にいる人をあたかも静止している人を見るかのように見る感じです。
その時、動いていく電車には気を取られず、中の光景を見ているので、電車のスピードには気を取られないことになります。
電車の速さを過ぎ去る時間とすれば、電車を見ていればあっという間に過ぎ去りますが、車内の状態はゆっくり時が流れているように思えるという状態。
両方の時間感覚があるということです。実際はもっと柔軟にありますが。
(続く)「和音」2012.10.1 (悦月)
光陰矢の如し。
月日が過ぎ去るのがますます速くなっているように感じられます。
10月も例にもれずあっという間に過ぎ去るでしょう。
しかしながら時間の幻想がだんだんと崩れつつある今、電車が目の前を通り過ぎるのを見ているのか、走り去る電車のまわりの景色を見ているのか、というかたちの現象が起きてきます。
景色と電車とその風景の中にいるあなたは同一時空間の中にいるのですが、あなたの意識が目の前を通り過ぎる電車に向かえば、とても速いスピードで時間は去っていきます。
が、通り過ぎる電車を見ながらも、まわりの動いていない風景に意識をフォーカスしていると、ベールをはがしたうしろの世界が見えてきます。
これもいつものごとく例えで言っているのですが、走り去る電車とそこにそのままある景色とそれを見ている自分を同時に認識するという意識を持ちたいものです。
電車に乗っていると、景色が過ぎ去り、自分は電車と共に動いているので、すばやく移動しているとは思いません。
先ほどの、通り過ぎる電車と景色とそれを同時に認識している自分を意識するという状態は、そのまま電車の中にいてる自分とリンクします。
この例えはわかりにくいかもしれませんが、なんとなく感覚で感じてください。理屈を当てはめようとしないように。
電車を見ている自分と電車の中にいる自分が同時にいて、電車の中で時間と共に移動している自分や過ぎ去る風景、電車の外にいて、過ぎ去る電車と動かない風景、そしてそれらを一度に認識する感覚(視点というより感覚です)を今月は養っていただきたいと思います。
その感覚(知覚といってもいいかもしれません)はこれから先に役立ちますので、今から少しずつ身につけていってほしいと思います。
いったい何を言っているのかわけがわからんという方は、時間というものが固定化された変わらないもの、時計の時間に拘束されたものでないということを意識するようにしてください。
これからの私たちは,限定された時間から自由になっていくべきです。
時間から自由になるということは、限定された思考、意識からも自由になることですので、新しい流れに向かうには必要なことだといってもいいでしょう。
今までは、30cm定規の長さは30cmだったのですが、これからは1mmを半分にして、またその半分にして、と半分にし続けると永遠に半分にし続けていけるという認識の世界が開き始めていきます。
つまり30cmだと思っていた定規には無限の長さがあるのだということになります。
時間にもあてはまります。その他のことすべてにもあてはまります。
この先何年もかけてこの認識が定着していきます。
今はまだ始まりですが、入り口はすでに開いていますので、気づいた人はいつのまにやら(そう、いつのまにやら、なんです)そちらのあり方に関わっていることになります。
その世界では失うものはなにもないですから(本当は今までの世界もそうなんですけどね)、生み出すだけとなります。
でも実際は今の世界となにも変わらないんです。
ただ「足りないから持っていないから、得ようとする」意識から、「すべてはあるので、ただ自分が作り出せばいい」という意識が基盤の世界に移ります。
移るといっても、その認識に達した人たちだけがそこにいるようになります。
追記:
電車の例えで、もう少し適切な言い方は、過ぎ去る電車を見ながら、中にいる人たちや車内の光景を、その場にいるように見ているという状態、というのがいいかもしれません。
過ぎ去る電車の中にいる人をあたかも静止している人を見るかのように見る感じです。
その時、動いていく電車には気を取られず、中の光景を見ているので、電車のスピードには気を取られないことになります。
電車の速さを過ぎ去る時間とすれば、電車を見ていればあっという間に過ぎ去りますが、車内の状態はゆっくり時が流れているように思えるという状態。
両方の時間感覚があるということです。実際はもっと柔軟にありますが。
(続く)「和音」2012.10.1 (悦月)
