87歳の父には好きな食パンがありました。
家から車で往復1時間くらいかけて何年もそのお店のパンをわざわざ買いにいっていました。
年もとってきたので、運転も控えてほしいと思っていた私は、街にでたときにおいしいパンを買い、多め買って、父の冷蔵庫に冷凍しておきました。
そんなある日久しぶりに父と話してると、
「おいしいパンが食べたいなー」とつぶやきました。
また、あの大好きな食パンのことをいってるのだと思いました。
私はまたか…という気持ちになって、
「この前買ったパンも美味しくて人気のパン屋さんよ」と、言ってしまいました。
さらに「世の中には美味しいパン屋さんがたくさんあるんだから、もっと色々食べてみたらいいじゃない」と。
帰り道、父に言った自分の言葉になんかモヤモヤしたものを感じている自分がいるのに気づきました。
なぜか苛立っていた自分…
その時、ふと、思ったんです。
…父は、あの食パンが大好きなんだ…
大好きだからわざわざ遠くまで買いに行ってたんだ。
そんな、最初から言ってるやん、というようなことに、はっと気づかされました。
他のものを知らないみたいに思ったけれど、
長い人生の中で色々なパンを食べて、あの食パンが
一番美味しい♡と思ったんだ…
それなのに私は、ひとつのパンにこだわっている父が、新しいものに目をむけようとしないで、かわらない狭い世界にいてるようにみえて、もっと世界を広げたらいいのに、と、批判してる気持ちがあったのです。
昨年夏に母が脳梗塞で倒れて、生活が一変してから、何も楽しみがなくなってしまったような父に、
もっと楽しんで生きてほしいという私の願いでもありました。
ても、あの食パンには母との思い出がたくさんつまってるのかもしれません。
私は父に
もっとこうしたらいいのに
もっとこうあってほしい
そう思い、私の思う枠にあてはめようとして、
そうしない父をわかってない人
ダメな人かのように思っていたのです。。
ごめんなさいという気持ちがあふれてきました。
その人の枠で評価されることは
私自身が子どもの時からがずっとされていていやだったことでした。
でも、私の中にも同じものがまだあったんです。
ある時は自分が子ともにやってしまっていたことに気づかされ…
そして、今回は親に対してもしていたのです。
こうして、どこまても人を通して自分をみせていただけると思うと、ありがとうという思いがまた溢れてきました。
翌日、父の好きなパン屋さんに食パンを買いにいって父に届けました。
端切れをトーストして食べてみたら
とっても美味しかった…
