思い出せ野性のリズム。

野性のビート。

野性のシャウト。


退屈な日常を作っているのは他の誰でもない俺やお前自身。

自分ので何とかしてみろよ。

自分の手で変えてみろよ。



覚悟、を、決めろ。




ここまで来てしまったんだからな。


哲学書を少し読み終え、今は英語の勉強中。

少なくとも12時までは頑張るぞ。

そしてそのあと昼寝さえしなけれもう一回哲学に戻って、そして憲法へ。

この一連の流れを一日の癖みたいにしたらいいんだな


今後の展開は読めてます。

問題はそれに対して俺がどの様な態度・言動に出るかだ。

それで全ては決まるだろう。

従って、サボらずにしっかりと思考しなければならない。

思考を放棄した人間は屑未満だ。

そうなりたくないから俺は逃げずに思考する。

思考しても答えが出るかどうかは解らないが、思考しなければ答えが出ないということは解っている。

だから思考するんだ。

サボっていたらダメなんだ。

そしていつどんな事態になってもいいようにあらゆる事態を想定しておかなければならない。

全てを想定内にしておく、というのではなく、想定外の事態が起りうるということを想定内にしておかなければならない。


しっかりせなならん。


前向きに、とか、ポジティヴに、とかはどうでもいい。

アウレーリウスみたいになってもいい。

とにかく思考するんだ。

そして俺の中に巣喰う弱さを可能な限り排除するんだ。


言うは易し・・・の世界だが、やらなければならないんだ。

思考思考思考。

サボるな、俺。


誰も救っちゃ暮れないんだから。

絶望的なほどにな。




どうも!架空の人物です。

死人の如く白目剥いてますか!?


このところ完全なる自殺行為をじゃんじゃか行っているので最期の日も近いですよ。

皆様の生活には一切影響なく死んでしまうのですよ。

間抜けな話。


未だに何かを求めているということはいけないことなのか?

いつまでも満足納得落ち着きがないということはいけないことなのか?


そんなことはないだろう。


と、俺は思うのだが、訳の解らない世間の道徳やら常識やらなんやらかんやらが俺を縛るんだよ。

実際、ぐるぐる巻きに。

簀巻きに。

そして港へ。


Good bye vacant days!




なんやかんや書こうと思ったのだがまたにします。

逃げ出す気力もありまへん。



明日も白目でね。



忌野清志郎さんの告別式の模様がテレビのニューズで流れている。

多くの人が駆けつけたとのこと。

惜しい人を亡くした。

いや、亡くなった人はみんな惜しい人だ。


しかし俺達の記憶は風化する。

忌野さんの死も、3月の上田現ちゃんの死も、そのうち風化してしまうんだ。

人間の脳の仕組みとはいえ寂しすぎる話だ。

生きていても忘れられている俺は死んでからはもっと忘れられるんだろう。

俺の存在を証すものなど何もないのだから。


だからこそ俺達は、書き、歌うんだ。


人が死んでも残した音楽は残り続ける。

記憶の中に残り続ける。

それが最高の手向けになるんだ。




世間の風は重たいが、俺はやっぱり闘うよ。


正直。

いま人生どん底です。

ここまで落ちるとは!

ある意味驚きだ。

ほんま、ここまで落ちるとは!


踏んだり蹴ったりもいいところで、踏まれたり蹴られたりしておりますよ。

踏まれまくり。

蹴られまくり。


精神、脆いなぁ。


何か一つだけでもしっかりとやらなければ。

そうでないと本当に俺が俺を見捨ててしまいそうだ。


金銭面でなく、生きるのに支障が出るようなトラブルばかり続発して。

ここまでついてないと笑いが出るな。

返って。


憲法なんつってもロックなんてっても現代詩なんて言っても、結局は自分が楽しめないと続かない訳で。

続かないし、楽しくないし。

楽しくなければ続かない訳で。

そしてやはりどうでもいいとは言い切れない金銭的な問題。

それとも上手く折り合いをつけなければならない訳で。

このままで一生行ける訳がないんだから。


なーんにもないってことですよ。


何か一つに賭けないと。

どれもこれもうまくいかせようなんて虫の良すぎる話。


結局俺は何がしたいんだろうか?


歌いたい、ってのがまず一番にくる。

やはり。

俺はうたいたいんだよ。

それでええやん、と思う、はずなんだけど、何かが引っ掛かってるのは、一体何なんだ?


しかし憲法。

ここで止めてしまったらすべてが終わる。

こんな事で止めてしまったらすべてが台無しだ。

あんな奴等のあんなやり口に屈していたらそれこそ俺の根本姿勢を問われる。


負けてたまるかよ。


真剣にならなければ。

まずは音楽に。

バンドに。

俺がやりたい事なんだから。

苦しみも伴うなんてそんなの長いことやってんだから解ってるはずだろうに。


サボるな!


そして憲法。

これもしっかりと前向きに戦略を練らなければならない。

今までのやり方では破綻してしまう。

とにかくしっかりと現状を見据えることだ。

憲法もサボるなよ。

しっかりと、在野中の在野なんだから、誰よりもしっかりと知識面・理解面の両面で秀でていなければならないんだ。

サボらずにいけ。


とにかく負けるな。

世間の風は冷たいが、決して屈するな。


一からのやり直し。

元に戻るだけ。


何を怖がってるんだ。


やるしかないんだろう。

やらなければならないんだろう。


絶対に逆襲してやる。

魂の生き残り。


死んだ方がマシなんて糞喰らえだ。

生きてこそだ。

生きてこそ逆襲ができる。


俺は逆襲する。

奴にも奴にも奴にも奴にも奴等にも。


屈するなよ、俺。

どんなことがあっても。


厚顔無恥に笑っとけ。


Fuck this & Fuck that!

クッソ-!





負けるかよ!!!




今日という日のことは絶対に忘れん。

俺の力不足、そしてこの資本主義社会。

俺は俺の手で必ず巻き返しを図ってやるぜ。

やられて終わっているなんてのは俺じゃねえ。

逃げるために三足の草鞋を履いてる訳でもねえ。

逃げ場はないんだ。

逃げられないんだ。

闘うしかないんだ。

立ち向かうしかないんだ。

俺のやり方で。

俺だけのやり方で。

他の誰とも違う、俺だけのやり方で。

一本の黒いギターだけから始まった俺やんけ。

何を格好つけてもしゃあないって話。

今では一本の赤いギターが俺の横にある。

それがある限り俺は絶対に負けん。

負けん、じゃなく、勝つ。

勝つんや。


屈辱のこの日のことは一生忘れへんぞ。


必ず巻き返してやる。

俺だけのやり方で。


必ず。





匿名でネットに登場したのは初めてのことなのだが、俺が誰かなんて知りたくもないだろうし、興味も関心もないだろうし、そもそも本名を明かしても誰も知らんだろうし、ネットで検索して「ああこんなことしてる人ね」程度の興味も湧かないだろうが匿名で書く。


匿名にしたからと言って何が変わると言うことのない俺。

結局本名でやってる方ばっかりで書いている俺。

無駄なことをしているよなぁ・・・とあきれ顔な俺。

本音がガンガンぶちまけられる、と思って作ったのだが結局放置の俺。

行かんことであるよなぁ。

情けないことであるよなぁ。


そんな俺、三足以上の草鞋を履いているのだが、どれもこれも中途半端でいかんよ。

やれんよ。


そんな中、俺の本を買ってくれたと言う方からご連絡が。

まだ読んでないのであれなのだが、こういう連絡が入ってくるのは嬉しいね。


基本的に俺は俺の作った作品すべては使い捨てでいいと思っている。

なので、本を買って頂いても、既に心はそこにあらずなので、感想を拝聴しても、もう俺の関心は最新の所に行っているので何だかアレだ、こそばゆい感じがする。

有り難いんだけどね。

十二分以上にね。


俺は頭がおかしい人が好きだ。

本を読んでいても会話をしていても頭がおかしい感じが伝わってくると異常に興奮する。

作りものじゃなく、本気で頭がおかしい人が好きなのだ。

作りものは大嫌いだ。


かく言う俺もあたまが相当おかしいので、人生行路をまともに渡っていけないのだが、それはそれで楽しい。

マニーはないが夢はある。

但し精神力がないのが困ったものなのだが。


まあ自虐的に楽しみますよ。


not構文でしか自分を表せないというのは悲しい。

しっかりした核(例えそれが曖昧なものであっても)を俺の中の中心に据えたいと思っている。

その為に生きているのだ。

その為に死にたくなっているのだ。


俺もお前も何らかの役割があるんだよ。

ただその役割に見合う能力があるかどうかはまた別の話だが。

諸行無常の鐘の音。


まあギリギリのエッジに立って楽しみましょうや。


俺はお前を待ってるが、お前は俺を待っていないだろう。

それでもいいのだ。

俺は進むのだ。

転びながら俯きながら。


一回こっきりの人生、ダイナミックに花火を上げて潔く散ろうじゃないか諸君!


なんて、そんな風に思う深夜2時半のわたくしでございました。

鼻歌じゃなくて腹から声を出して歌うんだぞ。


いいな!



本日も入金できませんでした!スマナイGさん!

明後日には、明後日には必ず-!!!


肺炎以降、ほぼ一ヶ月間ほど仕事を休んでしまったので、今やたらにしわ寄せが来ている。

だからといって焦らない俺は非常に残念な人間だ。

人間であるかどうかすら解らない。

なんせ俺の脳味噌はドングリほどの大きさしかない残念な代物だからだ。


何か貸金先が怪しい雰囲気になってきている。

俺だけに黙ってメルアドを変更している様子。

伝わってくるのだよそんなの、ね。

困った感じ。


とりあえず頑張りますよ。

我を張る。



青い鳥~♪


思考するとは行動するという事と同義であるし、同義でなければならない。

思考は脳味噌の行動だから、という単純な意味以上に、自己を形作る「絶対的他者」(これは”神”という概念であってはならないし、場合によっては”神”と呼ばれてもおかしくない)に対して、何らかの語りかけを行わなくてはならない、という事を意味する。

これをして「差異」の問題とするのも結構だが、今は差異の問題に収斂させたくはないという気持ちが強い。


主体の主体性を確保するためにはこの「絶対的他者」を想定する必要があるように思われるし、実際そうなのだが、今の俺の感覚で言えば、胡散霧散する怪しげな粒子をして「主体性」の原理に据えたいという思いがある。

ブラウン運動をして「主体性がある行動だ」とは言わないが、粒子がブラウン運動を行うという事実(正確には「ブラウン運動をする粒子が存在するという事実」)には逆らえないのであって、それは命題として豪華な椅子に座らせなければならないハメになる。

しかし本当にそれでいいのだろうか。

同じ科学者だとしても、社会科学者の姿勢として、または人文科学者の姿勢として、それは無責任というものではないだろうか。


ニーチェは体系的な研究者ではなかったという事を言う者が居るが、それは正しい。

そしてそれは体系学者の巨人とも目されているマルクスにも当てはまる。

彼らの仕事に体系が読み取れるとすれば、それは「ニーチェ主義者」や「マルクス主義者」の「仕事」のためである。

自分に都合良く解釈をするためにはテクストを、そしてエクリチュールを都合良く取り出してつなぎ合わせるパッチワーク的作業が必要だ。

そしてその落とし子として「体系」が生まれて「しまう」のだ。

それを俺は信じない。

「テクストに誠実に取り組む」とはそういうことだろう。


弁証法的に物事を思考する、というスタイルは今では相当変容されてしまっているが、まだ本来的意義で有効であると思う。

ただしジンテーゼがある一定の場所まで来たら殺される、という非成長的な事態が多々起りうることは別として、だ。

ある程度まで髭は伸びるが、一定程度伸びたらそれ以上伸びないのと同様に、現在における弁証法的思考者の思考はある一定程度まで来たら不思議なほどに止まってしまう。

これはなにもトロツキズムを賞揚している訳ではない。

至極簡単な話、根気がないのである。


これに関しては人のことを言う資格が全くない俺なのだが(俺もその中の一人)、これでは過度の感覚の高波に飲まれてしまい、テクストが白紙になってしまうという事態を生むことになるだろう。

そのような事態を回避するためには、そのテクストから「主題」(著者が最も主張したいテーマ。そしてそれを表象するキー・ワード)を抜き去り、一見すると些細な部分に光を当てる作業が必要になる。

実はそこにこそ「真実」があるような気がしてならないのだ。


「小さな甲虫」を「片手で潰した」ことを巡る一瞬観の思考をストーリー化した上田現の「ラブ・ソング」という歌詞がある。

主人公は「腹が立ったんじゃない。殺しちゃったんだぜ」と続ける。

そして「どうしようもない。恥ずかしいと思った」と自己分析する。

更にラストには「僕病気じゃない。みんな病気じゃない。みんな同じとこの健康体さ」と結ぶ。


たったこれだけの歌詞なのだが、何故タイトルが「ラブ・ソング」なのだろうかとの疑問が先ず浮かぶ。

そして小さな甲虫を片手で潰した「僕」は「みんな」と同じ「健康体」であると言う。

ここで最初のポイントは「片手で潰した」という点だ。

恐らく主人公は傍を這っていた小さな甲虫を「何気なく」潰したんだろう。

まるで石ころがあったから蹴ってみたというように。


しかし主人公はすぐに「殺しちゃったんだぜ」と告白する。

キリスト教の告白システムを無意識のうちに行っていると考えるのはまだ早計だ。

何故なら主人公は小さな甲虫を殺してしまった理由を「腹が立ったんじゃない」と逆の意味での理由付けをしているからだ。

この点、決して「腹が立ったら殺していい」などと主人公は思っていないことにも注意が必要だ。

しかし何故ここで「腹が立ったんじゃない」と内省するのだろうか。


そして最後には「僕病気じゃない」「みんな病気じゃない」と言う。

これはこの世に起る全ての事柄を一瞬にして肯定している最高の肯定形式だ。

逆に「病気である」ということを否定しているという訳でもない。

確かに「みんな同じとこの健康体さ」と言ってはいるものの、ここで言われる「健康体」という概念はほぼイコールで「病気」と連結してしまう。


ここで気を付けなければならないのは、主人公は決してポストモダン的発想を手段としてそのような内省をしているのではない、と言うことだ。

つまり「何でもあり」だとは思ってはいないし、逆説的に「みんな病気だ」などとは露とも思っていない、ということだ。


「小さな」「甲虫」「片手で」「潰した」「腹が立ったんじゃない」「恥ずかしいと思った」「病気(じゃない)」「健康体」・・・と言った必要最小限の言葉で語られるこの「ラブ・ソング」。

この構造はキルケゴールに通ずるとも考えられるが、やはりそうではないだろう。

何故ならこの主人公はこの歌詞が終わった次の瞬間には「日常」に戻っていることであろうから。

そう言えるのは、この曲のタイトルが「ラブ・ソング」と名付けられていることから想像できる。

誰に対しての、何に対しての「ラブ」ソングなのかという事も明らかにされてはいないが、彼の「胡蝶の夢」という作品を合わせ考えるなら、そのような結論に達することも可能だと思うのだ。


音楽の歌詞の分析と純粋なテクストの解釈はまた別の方法論が必要なのだが(文章と曲を両方書く人なら解るだろう)、彼の一連の作品には確実にそこらの哲学者を越えている。

メロディーという枠の中で書かれなければならない歌詞というものは不自由であるが、他方、不自由であるが故に、作者の「本音」が直裁的に現れ出でるものだ。

その点、上田現の作品は、メロディーの制約を受けていないように思える。

受けているとしても何らの問題もないようにも思える。

むしろメロディーのおかげで彼の歌詞は命を宿していると言える。


感覚と理論の両輪が不調和的調和の相を成している上田現という人間は巷間言われるように「鬼才」なのだろう。

そしてその意味で、彼は思考する人であり、行動する人であったのだと思う。

弁証法的思考に最も近く最も遠い人間であったということも、彼の天才のひとつであったと思われるのである。