被害にそなえる 付記・代受苦の思想
この時期、ご来寺された檀家さまとのご挨拶は「良いお年をおむかえください」が定番です。年内にもういちど、お墓、納骨堂にお参りされるかも知れませんが、お会いでできないこともあるので、そのように申し上げます。
来年は地震や豪雨、火事、火災の被害なくありたいですね、と檀家さま。
なかなかそうもいかないものですね、と私。
昨日こちらでも地震がありました。
被害にそなえる、といっても、なかなか本気になれません。
ただ、テレビ・ニュースで被害状況が報道されれば、
被害に遭っている方々は、いまは安全な状況にある私たちの代わりに被害をうけているのだ、と考えるようにしています。
避難経路、避難場所を確認し、防災グッズを買い揃えるまえに、「私たちの代わりに被害をうけている」のだとの理解こそが、いざ自分自身に災難が降りかかるときの被害にそなえることになるのかも知れません。
でも、来年こそは地震、豪雨、火事、火災の被害は少なく、大難は小難にと願わずにおれないのです。人を襲うようになった熊さんは、どうすればいいのでしょうか。もう、金太郎の時代には戻れないのでしょうか。それも人間の無茶で、勝手な生活がそうしたのですから、これも人間のエゴ、身勝手です。
「地球の環境、地球に生きる生物すべてが、人間を殺しにかかっている」とは、考えたくはないのです。困っているだけなのです。
仏教語のひとつの「代受苦」があります。『望月仏教大辞典』には、菩薩が大悲心を以て、衆生に代わりて悪趣の苦報を甘受するをいう、とあり、大悲代受苦ともいいます。菩薩はなぜ、衆生の代わりに、苦を受くるのでしょうか。同辞典は、『大智度論』巻四十九「是れ菩薩は弘大の心をもて、深く衆生を愛す。」(414b15)、『瑜伽師地論』第四十九「一切有情の苦を除かんが爲の故に、一切有情の諸の惡趣の業は、淨意樂を以て、悉く自身、彼れに代わりて苦の異熟果を領受せんと願う」(565a20-22)云々を挙げています。「一切有情の苦を除かんが爲の故に」を再解釈するなら、いま地球や地球上の生きものが、私たちの人間に身勝手な行いで疲弊しているのだということを知らせるために、被害に苦しむ多くのお方は、私たちの代わりに被害をうけているのだ、ということ。「淨意樂を以て」は、被害に遭っても、いかりや悲しみの心を深くすることなく、正しく対処することを教えているのではないでしょうか。