理趣経第十一段 普集の法門 一切と般若波羅蜜多

 

[不空訳] 所謂 一切平等性故 般若波羅蜜多平等性

いわゆる(それは)、一切の平等性の故に、般若波羅蜜多は平等性なり。

 

[栂尾・泉]  sarva-samatayā prajñāpāramitā-samatā,

[苫米地] 欠写本

すべてが等しき状態にあるのであるから、般若波羅蜜多も平等性である(般若波羅蜜多の平等性がある)。

 

ここでは、一切(sarva)と般若波羅蜜多(prajñāpāramitā)とが等価であることが説明されます。「一切」(すべて)については、玄奘訳「一切有情」「一切法」、菩提流志訳「一切法」とあり、『理趣釈』においても、第一句の解説箇所に「一切有情」の語が認められます。ここでは「一切有情」という理解を含めての「一切法」(あらゆる存在)と解しておきます。般若波羅蜜多については、次のようにあります。

 

一切の法が等しき状態にあること(sarvadharmasamatā)に対する、習気を伴なう煩悩を離れた般若波羅蜜多を獲得する手段(upāya 方便)が法無我の智であり、般若波羅蜜多である。

 

さらに、アーダンダガルバは四句の等価について、まず前三句を、gnyis su med pa nyid(*advayatā 無二)、tha mi dad pa(*ananya[-tā] 不異)、dbyed med pa(*abheda[-tā] 不離)と表現し、第四句を veditavyā (知るべし)、sbyar (sbyor) bar bya(瑜伽すべし、等価とすべし)とします。その根拠となるのが、「勝義として、一切の法は法界を本性としている」ことです。

 

さて、「一切平等性故 般若波羅蜜多平等性」(sarva-samatayā prajñāpāramitā-samatā)は、驚くべき意味を示していることを指摘しましょう。不空三蔵は、第一句の「平等性」の意味するところを「一切の有情、皆な不壊(*abhedya)にして金剛の如き仏性有る」こと(「一切衆生悉有仏性」)とし、それを悟る手段となるのが、金剛部のマンダラであると解釈するのです。したがって、第一句は金剛部(如来部、如来)のマンダラを統合します。アーダンダガルバも、同趣旨の解釈を示します。密教行者にとっては、仏性を「字印形像を」もって、具体的、実感をともなって「示す」ことは通常のことなのです。

 

今朝は、第一句の説明までとします。本日は、護摩供用の樒(しきみ)の準備等々と、ご法務がひとつ予定されています。

 

 

お大師さまから伝わる仏舎利

「範俊相承仏舎利」(はんしゅんそうじょうぶっしゃり) 

金剛三昧院さま