理種経第十段 忿怒の法門 アーダンダガルバの理解
髙橋尚夫先生の『般若理趣経の基礎的研究』第一部<テキスト篇>にもとづき、第十段に対するアーダンダガルバの解説部分を和訳して、ご紹介いたします。
第一句
「一切の有情は等しき状態にあるものであるから、忿怒は(/忿怒も)等しき状態にあるものである(sarvasattva-samatayā krodha-samatā)」というのは、身内(mdza’ bo. Cf. mdza ba)、中の者(tha mal pa)、敵立する者(dgra bo)、如来部(の尊格)、菩提心を本性とする(一切の如来の)心・心所が、一切の有情(sarvasattva)である。
<補説>まず、「一切の有情」の意味が示されます。身内、中の者、敵立する者でもって、一切の有情が分類されます。そして、そのいずれに対しても、かれらを苦から、罪悪から離れされたい望み、それを実行しようとする大悲が起こされなければなりません。なお「如来部(の尊格)、菩提心を本性とする(一切の如来の)心・心所が」という説明が第一句にのみ適応されるのか、四句すべてに対するものであるのか、私にはいまだ結論がでていません。
それらの平等性(samatāそれらが等しき状態にある)とは、勝義としては真如(tathatā)(であることである。そして)、世俗においては、身内、中の者、敵立する者に対する大悲の赴くまま(gzhan gyi dbang gis)、心が等しき状態にあることであり、忿怒によって(、たとえば敵立する者に対する)益することなきことから離れて(phan pa ma yin pa las bzlog pa)、益と結びついた心(phan pa la sbyor ba’i sems)で(すべての有情を忿怒する)という意味である。忿怒は等しき状態である、とは一切の有情にする平等性(を示す)それ(= 前句)によって、身内、中の者、敵立する者に対して金剛夜叉(rdo rje gnod sbyin)の忿怒のお姿を正しく(yang dag par = 平等に)示現して、罪悪(sdig pa. pāpa)より引き離すことが、忿怒の平等性ということである。無所縁の大悲の勢い(shugs)を有する忿怒によって教導される有情を教導するから、忿怒行(、すなわち一切の有情を悟りへ導く般若波羅蜜多)の実践(khro bo’i bya ba bsgrub pa)が忿怒の平等性である。
この理解をもって、第一句に、ことばを足せば、
一切の有情は、勝義として真如なる状態にあり、世俗としては、親疎なく等しき状態にあるものであるから、忿怒は等しき状態、すなわち、有情すべてを分け隔てなく、罪悪より引き離すのである。
となります。なお、忿怒(krodha)とは、無所縁の大悲を意味しています。
第二句
いかなるとき、忿怒行の実践から離れるのかといえば(khro ba’i bya ba bsgrub pa las ldog par ‘gyur zhe na)、一切の有情は教導すること(に適するもの)であるから、忿怒(みずからを)は教導すること(に適するもの)である(sarvasattva-vinayanatayā krodha-vinayanatā)と説かれている(通りである)。一切の有情が教導されたそのとき(’dul bar gyur pa de’i tshe)、忿怒によって教導される(べき)有情は存在しなくなるから、大悲の忿怒によって(忿怒みずからが)教導され、(忿怒を)離脱する(bral bar ‘gyur ro)という意味である。
第二句に対するアーダンダガルバの表現「忿怒によって教導すべき有情は存在しなくなるから」とは、とても意味深きものです。すなわち「いかなるとき、忿怒行の実践から離れるのか」という設問(= 解決への疑問)は、いつ、忿怒行は完成するのか、という意味であります。それは vinayana-tā ということばをいかに理解するかにかかっています。ここでは「教導するに適するもの」(教導すべきもの. Cf. praheya)という日本語を与えています。また、不空三蔵の「一切有情調伏故 忿怒調伏」(一切の有情の調伏の故に、忿怒は調伏なり、あるいは、一切有情は調伏なるが故に、忿怒も調伏なり。)に対しては「一切の有情を調伏するが故に、忿怒の調伏である」と訓読する可能性を指摘しておきます。
第二句は、そのような理解をもってすれば、なんらことばを足すことなく、そのまま読めます。
一切の有情は教導するに適するものであるから、忿怒は(/忿怒も)教導するに適するものである。
ただし、「教導するに適するもの」であっても、忿怒は、大悲の忿怒、無所縁の大悲であることに他なりません。
第三句
忿怒、その法性とは何か、といえば、(それは)あらゆる有情は(本性として清浄なる)法性であるから、忿怒は法性であることである(sarvasattva-dharmatayā krodha-dharmatā)、と説かれている(通りである)。一切の有情は、勝義として、所取・能取を離れた状態にある。それと共なって働いていること(lhan cig tu gyur pa)が忿怒の法性であり、一切の有情が自性なきを本性(dngos po med pa’i ngo bo nyid, abhāva-svabhāvatā)とすること、それは忿怒の自性なき本性(= 法性)であり、それが(教導すべき)いかなる有情も存在しないという意味である。
第三句は、忿怒の法性とは何か、ということを明らかにするとアーダンダガルバは理解します。ここでの「法性」とは、所取・能取を離れた状態にあること、無自性であること(*niḥsvabhata-tā)をいいます。ここでも、アーダンダガルバは「(教導するに適する)いかなる有情も存在しない」という句を繰り返します。第三句も、そのまま読めます。
一切の有情は法性(= 無自性を本性としているの)であるから、忿怒は(忿怒も)法性(= 無自性を本性としているの)である。
第四句
どうして、忿怒というこの名称が、不壊(mi phyed pa)という名称で(表現されるので)あるか、といえば、(それは)一切の有情は金剛たるものあるから、忿怒は金剛の状態にある(sarvasattva-vajratayā krodha-vajratā)、と説かれている(、その通りである)。(金剛とあるのは、如来部、菩提心を本性とする)心・心所が、勝義として所取・能取の分別を脱しているということである。それが、あらゆる衆生は金剛たるものあることであり、それにより、忿怒が金剛の状態にあ(るというのであ)り、一切の有情の金剛性たること、それが大悲(となり)、忿怒の本性である。なぜなら、一切法は法界を本性とするのであるからである。あるいは、忿怒をもって教導すべき(khro bos ‘dul ba’i)一切の有情に対して、(かれらの)生死の迷いがある限り(この世、すなわち、一切の有情の身近に)住することが、一切の有情の金剛性たることである。一切の有情の金剛性たること、それが理由となって、忿怒の金剛性があり、教導されるべき(gdul ba’i)一切の有情を忿怒によって教導しようとする行い(が不壊、金剛)である。生死の迷いがある限り、忿怒行の実践の連なり・系譜(bryun. Cf. rygun, brgyud)が絶たれないことが忿怒の金剛性である。
第四句に対して、「どうして、忿怒というこの名称が、不壊(mi phyed pa)という名称で(表現されるので)あるか」という問いをたてます。不壊(mi phyed pa)とは、もちろん金剛性(vajratā)のことです。そして、一切の有情が法性であることが、忿怒の金剛性(不壊性 = 完成性)を裏付け、忿怒行の実践の連なり・系譜(bryun. Cf. rygun, brgyud)が絶たれないこと(不壊性 = 未完成性)を支援するのです。
このように理解をもって、第四句は十全に読み解くことができるのではないでしょうか。
一切の有情は金剛たるものあるから、忿怒は金剛の状態にある。
以上のアーダンダガルバの理解をもって、次回は再び、不空三蔵『理趣釈』を読み返し、前回の筆者の理解に対して批判を試みてみます。