[不空訳] 於般若波羅蜜多 受持讀誦 自書教他書 思惟修習種種供養 則爲於諸如来廣大供養
般若波羅蜜多に於いて受持し読誦し、自ら書し、他を教えて書せしめ、思惟し修習し、種種に供養するは、すなわち、諸の如来に於いて広大に供養するになる。
[栂尾・泉] 4)prajñāpāramitā-likhana-lekhana-dhāraṇa-vācana-uccāraṇa-bhāvana-
pūjana-karmanaḥ (m. pl. N.) sarvatathāgata-pūjā-vidhvistara iti
[苫米地] 欠写本
般若波羅蜜多を書写し、書写をさせ(tib. yi ger ‘dri ba dang / yi ger ‘drir ‘jug pa dang / )、受持し、読誦し、暗誦し、修習し、(敬意をもって)供養すること、(このような)さまざま行いは、一切の如来に対する詳細な儀軌(指示)をともなった供養である。
『理趣釈』は、この句を金剛舞供養菩薩の三摩地として、次のように解説します。「大精進に由て、金剛毘首羯磨(viśvakarman)の解脱智を以て、遍く無辺の世界に遊び(= 赴き、至り)、諸仏の前(みまえ)に於いて広大の供養を以て、一切の仏法・般若波羅蜜等の諸の修多羅(sūtra経典)を説きたまえと請い、十種の法行を以て、頓に福徳・智慧との二種の資糧(saṃbhāra)を積集し、三種の身(法身・受用身・変化身)を獲得す。」
六波羅蜜を福徳と智慧に分けて、布施等の前五(布施、持戒、忍辱、精進、禅定)は福徳(puṇya功徳)の積集(しゃくじゅう)、般若波羅蜜多を智慧の修習(しゅじゅう)としますが、もちろん六波羅蜜多等を通じての、福徳と智慧の二資糧(自利・自他)具足円満は仏果となり、それぞれ色身・法身の獲得に資することになるといいます。「十種の法行」については、『理趣経』 初段 歎徳(生善の徳を歎ず)2025-10-10.
アーダンダガルバは、「本性として(rang bzhin gyis)光り輝き(Cf. 第七段・第四句)、精進波羅蜜多を自性(ngo bo nyid)とする、(一切の如来の)心・心所であり、羯磨部(の諸尊)が、(第四句の)一切の如来である。それに対する供養することが、前述した般若波羅蜜多を書写すること等の仕方(でもって)である。(それらが)一切如来を現證する(= さとる *abhisaṃbodhana)要因(mngon sum du byed pa’i rgyu)であるからである。
心真言
[不空訳] 時 虚空庫大菩薩 欲重顯明此義故 凞怡微笑 説此一切事業不空三摩耶一切金剛心 唵
時に虚空庫大菩薩(は)、重ねてこの義を顕明せんと欲うがゆえに、凞怡微笑して、この一切事業の不空三摩耶(であり)一切(身口心)金剛(から成る)の心を説きたまう。oṃ
[栂尾・泉] oṃ
[苫米地] 欠写本
(tib.) de nas byang chub sems dpa’ sems dpa’ chen po nam mkha’i mdzod don de nyid rgya cher ston te / bzhin rab tu ‘dzum zhing las thams cad don yod pa’i dam tshig ces bya ba’i snying po ’di(不空なる、一切事業[の]三昧耶と称する、この心真言)smras so // oṃ チベット訳文等各類本には、不空訳「一切金剛(心)」に相当する語は認められないようです。「一切金剛心」を、一切(身口心)金剛(から成る)の心、と理解しておきました。
「不空なる、一切事業の三昧耶の心」に対するアーダンダガルバの説明は以下の通りです。「事業(= 仏事、仏業)とは、発菩提心等の四種の事業(las)である。それが不空である(de’i don yod pa. tat-amogha)とは、(期待される)成果(’bras nu. phala)を有することである。その三昧耶とは、それ(= 果)を生ぜしめる要因(skyed par byed pa’i rgyu)である。その名称通りに(効果を発揮する)確定された智(nges pa’i ye shes)が心真言(hrdaya)である。」
第九段の心真言の oṃ(Cf. oṃ gaganasvabhavavajra oṃ)字は、常には、供養の義であるのですが、『理趣釈』は、三身の仏身の義を含意するとして、以下のように説明しています。それは前述の「三種の身を獲得す」に対応してのことなのでしょう。
「唵oṃ字は三身の義なり。または、無見頂相uṣṇīṣaの義と名づく(= 報身、ū)。または、本不生anutpādaの義と名づく(= 法身、a)。または、これ如来毫相(Cf. 眉間白毫 ūrṇā-keśa)の功徳の義なり(= [応]化身、ma)。」Cf.「oṃ字はこれ法身なり。法身はすなわち真如なり。真如法身ことごとく、皆なoṃ字の一声より出づ」『十住心論』巻第九、「吽hūṃは四字をもって一字を成ず。(中略)aは法身の義、haは報身の義、ūは応身の義、maは化身の義なり」『吽字義』
なお、如来毫相功徳がma 字の義であることについては、「(727b01)毫相者如意(b02)珠也。疏第五云。畫如來白毫相印○手執(b03)蓮花。如半敷之状。内有如意寶珠(cintāmaṇi)。此是如(b04)來無邊福業之所集成文」『秘要鈔』巻第十に指摘がある通りなのでしょう。
第九段については、ひとまず以上です。