現在、私たちの日常には不安が充満しています。勤めている会社は大丈夫だろうか、倒産しないだろうか。これからも健康で生活できるだろうか。気候変動によるきびしい暑さ、大型台風の発生など、来年はどうなるのだろうか。老後の経済状況にも不安がいっぱいです。
本日のご法事は、82歳でお亡くなりのお父さまは三回忌。施主のお母さま、そしてお母さまを囲むようにお二人の息子さまのご参列です。息子さまのお仕事は、いまのところ、順調なようで、何よりなのですが、少し不安・不満顔でした。そこで、観音経についてのお話しになりました。たとえば、次の一節を読んでみましょう。
或被悪人逐(わくひあくにんちく)堕落金剛山(だらくこんごうせん)
念彼観音力(ねんぴかんのんりき)不能損一毛(ふのうそんいちもう)
大意は、たとえば悪人に追いかけられて、高い山から突き落とされたとしても、観音の神通力を念ずれば、頭髪一本も損失、怪我することはない、ということ。
「不能損一毛」、たとえが面白いですね、自分の坊主頭を撫でる。でも、それは横において、この一節、信じられますか。普通なら、そんなことあり得ないよ、となります。それは何故かといえば、まずもって私たちは、幸いにして、そんな危機的な状況を経験したことがないからなのです。
山から突き落とされたなら、誰だっていのちは助からないでしょう。万が一生存できたとしても、「不能損一毛」ってことはないでしょう。
では、たとえとして提出したまでの、この一節はどのように理解すればいいのでしょうか、とお話しは進みます。
それを読み解く鍵は、
聞名及見身(もんみょうきゅうけんしん)心念不空過(しんねんふくうか)能滅諸有苦(のうめつしょうく)
にあるのです。観音さまのお名前を聞き、そのお姿を見る、すなわち観音さまとご縁を結び、それから以後の毎日を空しく過ごすことなく、観音さまの素晴らしさを心に念じていれば、「不能損一毛」であることが現実化するのです。観音経には、観音さまの素晴らしいお働きが説き明かされています。
でもなにも「念彼観音力」でなくてもいいのです。お仕事をまじめに(= 精一杯)、正しく(= 邪な思いを抱かず)、怠けず、自分なりにこつこつと励むことができるなら、何があっても大丈夫、ってことなのです。
食事に気を配り、運動を適切に行う、家族、お友達との関係を上手にたもち、ストレスを生じることなく等々、気を付けて毎日過ごしているのなら、病気になっても、大丈夫、ってことなのです。
将来について何も心配しなくてもいい、とは言い過ぎですが、いまを大切に過ごすことを忘れないでいるのなら、ある意味、何があっても大丈夫なのです。
或被悪人逐(わくひあくにんちく)堕落金剛山(だらくこんごうせん)
念彼観音力(ねんぴかんのんりき)不能損一毛(ふのうそんいちもう)
やはり、観音さまは、
於苦悩死厄(おくのうしやく)能爲作依怙(のういさえこ)
苦しみ、悩み多きわたしたちにとって、観音さまは、そのひとりひとりを大切だと「依怙贔屓」(えこひいき)してくださり、頼りになるお方なのです。
そして
慈眼視衆生(じげんじしゅじょう)福聚海無量(ふくじゅかいむりょう)
その福徳は、大海原のように限りなく、慈しみの眼でもって、わたしたちを見つめてくださっているのです。
