理趣経 第七段 文殊師利理趣品(字輪の法門)
第七段の心真言を明かす「文殊師利童真(-bhūta)」という尊格の説明から始めます。
『理趣釈』序分、衆(= 眷属 parivāra, pariṣad)成就の解説部分より
「文殊師利菩薩は東南隅の月輪に在り、一切如来の般若波羅蜜多の慧剣を表す。三解脱門に住して、能く真如法身の常楽我浄を顕わす。菩薩(= 真言行者)、この智を証するに由て、便ち等正覚を成ずるなり。」
[不空訳] 時薄伽梵 一切無戯論如来 復説轉字輪般若理趣
ときに薄伽梵、一切無戯論なる如来は、また転字輪の般若理趣を説きたもう。
[栂尾・泉] atha bhagavān sarvadharmāprapañcas tathagataḥ punar api cakra-akṣara-parivartaṃ nāma prajñāparamitānayaṃ deśayām āsa :
[苫米地] 21 atha bhagavān sarvadharma-samatā-aprapañcas tathāgataḥ punar api-imaṃ cakra-akṣara-parivartaṃ nāma prajñāparamitānaya-artham abhāṣata ―
そのときに、尊きお方(= 毘盧遮那)にして、存在するものすべてに無戯論であ[り、等しきことを知る]如来は、また、輪[のように]文字を転ずるという、この般若波羅蜜多の理趣の義(artha 意味)を説いた。
一切(sarvadharma)について、アーナンダガルバは次のように説明しています。
「一切法(存在するものすべて)とは、大菩提心・布施波羅蜜・般若波羅蜜・精進波羅蜜、アーラヤ識・染汚の意・個々に分別する(so sor rtog par byed pa 有分別)意識となんらを分別しない(gang rnam par mi tog pa 無分別。五倶の意識、定心の意識)意識・眼耳鼻舌身識の、これらの対象(yul)、円鏡智・平等性[智]・妙観察[智]・成所作智、自性身・無分別身(rnam par mi rtog pa’i sku)・受用身・変化身、如来部(rigs. kula 部族、家系)・金剛[部]・蓮華[部]・宝[部]・羯磨部、これらに対して戯論することが、さまざまな分別(rnam par mi rtog pa)ということである。(これらを)戯論しないこと(、すなわち分別しないこと、そして等しきと知ること)が無戯論であって、[大]菩提心等を分別しないことである。」ここでは、四徳性、八識の対象、四智、仏身、五部族のセットが示されています。これらは、マンダラを意識しての「一切」です。なお、このうち、無分別身(rnam par mi rtog pa’i sku)とは、智身、現等覚身をいうのでしょう。「現等覚身」はブッダグヒヤの用いる用語でもあります。
第七段の説主である「一切無戯論なる如来」とは、文殊師利菩薩を意味します。
『理趣釈』「薄伽梵一切無戯論如来とは、これ文殊師利菩薩の異名なり。(中略)転字輪とは、これ五字輪(a, ra, pa, ca, na)の三摩地なり。」
『十住心論』巻第七
「(文殊菩薩は)maの一字を体とする(種字はmaṃ)。これ大空の義なり、大空はすなわち大自在なり、大自在はすなわち大我なり、大我はよく大空を証す(= 転字輪)。大我は一切の法において無著・無礙なり。これ如来の智慧なり(= 般若波羅蜜多)。もし(この)平等の慧を得れば、一切の法においてすべて戯論を絶つ。この故にまた無戯論如来と名づく。」
同「いわゆる空・無相・無願とは、これ三解脱門なり。」
同「文殊師利はこれ大日如来の智慧なり。大日如来を離れて別に慧あるにあらず。」
本日はこれまで。いわば試運転ですね。