沈鬱(ちんうつ)と軽躁(けいそう) 心所法の学び

 

沈鬱(ちんうつ。ふさぎ込み)と軽躁(けいそう。浮動して静まりなきこと)は、私たちが日常生活にあって、しばしば感ずることのある、決して病的ではなくとも、やっかいな心の状態をいいます。

 

仏教用語では、沈鬱(ちんうつ)は、惛沈(styānaこんじん。rmugs pa)といい、軽躁は、掉舉(auddhatyaじょうこ)といいます。ともに、玄奘の用いる訳語です。それぞれは次のように定義されます。

 

styānaṃ katamat/ yā kāyagurutā cittagurutā kāyākarmaṇyatā cittākarmaṇyatā/ kāyikaṃ styānaṃ caitasikaṃ styānam ity uktam abhidharme/ kathaṃ caitasiko dharmaḥ kāyika ity ucyate/ …..

「惛沈とは何か。 身(からだ)が重い状態、心(こころ。精神)が重い状態、身が活動に適していないこと(= 軽快でないこと)、心が活動に適していないことである。身体的な惛沈、精神的な惛沈」と阿毘達磨では言われる。

auddhatyaṃ punaś cetaso 'vyupaśamaḥ/

次に、掉舉は心の静まりのないことである。

Abhidharmakośabhāṣya of Vasubandhu ed. by Pradhan, 1967, 56, 7-10, Chap.II v.26b

櫻部建『倶舎論の研究』界・根品、Bauddha Kośa仏教用語用例集参照

 

アビダルマでは、惛沈と掉舉は、無明(avidyā)、放逸(pramāda)、懈怠(kauśīdyaけだい)、不信(āśraddhya)とともに、心所法(caitasikā dharmāḥ心の状態、精神作用)のうちの大煩悩地法に数えられています。これらの心所は、恒に染(kliṭa-)心、すなわち、不善と有覆無記の、煩悩に汚された心に相応し並起し倶行する、、染心においては常にある、という意味です。

 

瑜伽行唯識では、惛沈と掉舉は、ともに禅定を修するときに生じる心の状態とされます。惛沈は「心が重く沈んで不活発となり、対象を適確に正しく認識できなくなった状態」であり、掉舉は「禅定中においてある一つの対象に心が集中していても、心がうきうきしてさわがしい状態」である、と説明されます。

 

禅定を修するのでなくても、ものごとに集中して考えたいときに、沈鬱と軽躁は、身心を煩わし、悩(なや)ませます。(善・不善・無記の三性 2025-10-21)。そして、それぞれは、愚かさ(moha)の一部である、心が活動に適していない状態(mohāṃśikā cittākarmaṇytā)、であり、貪り(rāga)の一部であり、好ましい対象を追う者の心が静まらない状態(śubhanimittam anusarato rāgāṃśikaś cetaso 'vyupaśamaḥ)をいいます。

 

煩悩は、まだまだたくさん数えられるのですが、惛沈と掉舉は、決して病的ではなくとも、ものごとに集中して考えたいときに生じてしまう、やっかいな心の状態をいいます。それに対する有効な対処手段として、仏教は行捨(upekṣā)を教えます。それは、心がいずれかに傾くことなく平等に働く状態をいい、そして、意図的・意志的でなくとも活発に働き、そして安心して日常生活を過ごせるようにと導く心の善なる状態をいうのです。

 

惛沈と掉舉は、不安や熱望などの感情によって生じます。秋の晴天のよき日、皆さまの身心の健康をお祈りいたします。合掌

 

櫻部建『倶舎論の研究』界・根品、法蔵館1969

横山紘一『唯識とは何か』春秋社1986

河村孝照『倶舎概説』山喜房仏書林2004

を参照図書としています。

 

心所法については、suryasoma さんの、法(ダルマ)について(8)―心法と心所法2013-09-15などがありされます。