『大日経』「住心品」六十心は、貪心、無貪心から数えられます。それは以下のようにありました。(『大日経』住心品 六十心 貪心・無貪心
祕密主、彼れ、云何が貪心(rāga-citta)。謂わく、染法に随順す。云何が無貪(virāga-citta)心。謂く無染の法に随順す。
de la ‘dod chags kyi sems gang zhe na / chags pa can chos kun tu sten pa’o // ‘dod chags dang bral ba’i sems gang zhe na / ‘dod chags dang bral ba’i chos kun tu sten pa’o //
このうち、欲心(rāga-citta)とは何か。欲(喜び、楽しみ)をともなう法(ものごと)に関与する(*anu-√sev)ことである。離欲の心(virāga-citta)とは何か。欲を離れた法に関与する(何ものにも喜び、楽しみを生じない心の働き)ことである。
欲心と離欲の心とが、対概念として示されています。なお、心所としての、貪(rāga欲)は次のように定義されます。
traidhātuko ’nunayaḥ([tṛṣṇāvaśena渇愛による、]三界に属する愛着である)Abhidharmasamuccaya
pañcasūpādānaskandheṣu sneho ’dhyavasānam(五取蘊に対する愛着であり、執着である)Pañcaskandhaka
瑜伽行派文献の五位百法では、貪(rāga欲)は煩悩という心所に配属され、五位七十五法では、他に共通する定義をそなえることができない、個別に扱うべき心所である不定地法としての、尋、伺、睡眠、悪作に次いで、心所の末尾に、瞋(pratigha)、慢(māna)、疑(vicikitsā)とともに、すなわち四煩悩として数えられています。(仏教用語用例集、等を参照)
『理趣経』における説処が、欲界・他化自在天であることの意味を理解するためにも、貪心(rāga-citta)、無貪(virāga-citta)心に対する、善無畏(Śubhakarasiṃha)三蔵『大日経疏』、および Buddhaguhya の『広釈』における説明をみていきましょう。
『大日経疏』巻第二
祕密主、彼れ、云何んが貪心。謂わく、染法に随順す、とは、謂わく、前の境(面前にある対象)に染著す。即ち是れ、浄心を染汚する(というはたらきを作す)なり。若し、此の法(、すなわち染法)に随順し、(貪心をもって)修行するを有貪心(貪心の有る者)と名づく。
心法(こころそのもの)は微細にして識り難きを以て、但し、彼の所爲の事業(それが作すところのはたらき)を観ずるに、必らず相、外に彰わるることあり。譬えば、煙の状貎(liṅga, hetu)を鑒(かんが)みて、すなわち火性(そこに、火があること)、以て比知(= 比量、推論anumāna)すべきが如し。故に(以下の)諸句多く、順修(= 随順)を以て義を明かす。以て例すべきこと然なり。
此れ等(六十心)は皆な是れ、未だ出世の心を得ざるより以來かた、(世間的な、すなわち未だ煩悩から脱していない)善(心)と種種に雑起するの心なり。若し行者、善く真・偽を識って、猶おし農夫の務めて穢草を除き、以て嘉苗を輔(たす)くるが如くすれば、すなわち浄心の勢力、漸漸に増長す。是れ因縁の事相(縁起より生じたことがら)なりと謂って、至言(しげん)を軽忽(考慮するに足らないと)し、心をして其の中に没して、自ら覚知せざらしむること勿れ。
『大日経疏』における貪心の解説は、六十心の最初であることもあって、六十心全般に関わる説明も加わり、上記のように三分することができます。「(世間的な)善(心)と種種に雑起するの心」であるが、「浄心を染汚する」(「善萠を障う」)。しかし、善く六十心の真・偽を識れば、「浄心の勢力、漸漸に増長す」というのが六十心全般に関わる説明です。したがって、貪心に関する説明は「染法に随順す」、「前の境(面前にある対象)に染著(愛着 anunaya, sneha)す」ることのみとなります。貪心は、次の、無貪心の説明を待って、その意味が十全となります。
第二に、云何んが無貪心。謂わく、無染の法に隨順す、とは、謂わく、前きの心と相違せり。乃至、進求すべき善処にも、亦た復た願楽(がんぎょう)を生ぜず。是の故に、善法に染せず(善法に関与することなく)、倶に(貪心と同じく)善萠(= 善根の生ずること)を障(ささ)う。(無貪心は、)無染汚(*asaṃkliṣṭa. 煩悩に汚されていない、の意)の心と名同じうして、事(その内実は)異なり。最も須(すべか)く観察すべし。是の故に、行者、但し、貪心の実相を観ずるに、自然(じねん)に貪して、心を染せず。是の如くの無慧不貪(= 慧なき故の不貪)の行を起こすべからず。
貪心の「染法に随順す」は、「善法に染」することをも含んでいるのです。そして「貪心の実相を観ずるに、自然(じねん。無功用)に貪して、心を染せず」とは、きわめて、密教的な表現であることが指摘できます。
次いで、Buddhaguhyaの『広釈』における説明となります。(少し休憩します。本日は、ご法事はなく、お休みをいただいているので、時間を気にすることなく、お勉強ができます。)