いずれが勝者なる 

 

増谷文雄『阿含経典による仏教の根本聖典』第三篇 根本説法、第六章 瞋恚説法より、いずれが勝者なるp.118-119.

 

南伝 相応部経典 七、三 阿修羅王

Samyutta-Nikaya VII. Brahmana-samyuttam, 3. Asurinda (Part. I. p.160ff.)

漢訳 雑阿含経(TNo.99, vol.2)巻第四十二(1153. Cf. 1151, 1152, 1154)

 

かようにわたしは聞いた。ある時、世尊は、ラージャガハ(王舎城)の竹林なる栗鼠養餌所(14-2)にあられた。その頃、阿修羅とよばれる婆羅門の一人の弟子が、世尊に帰依し、世尊のもとにおいて出家した。

 

<合いの手>お釈迦さまの魅力、真理の力で、こういうこともままあたったのです。

 

かの婆羅門は、そのことを知って、心はなはだ喜ばず、怒って、世尊を訪れ、はげしい悪語をもって、世尊を罵詈し、誹謗した。だが世尊はただ黙していた。そこで、かの婆羅門は、世尊に言った。

「沙門よ、なんじは敗けたのだ。沙門よ、わたしは勝ったのだ。」

 

<合いの手>婆羅門は、道理に反して怒っています。お釈迦さまは、平静な心持ちで沈黙をたもっています。それに対して、婆羅門は勝利宣言をします。論諍において黙ってしまった方が敗け、敗北を認める、という決まりであったのです。だから、「沙門よ、なんじは敗けたのだ。沙門よ、わたしは勝ったのだ。」となります。婆羅門は、満足したのでしょうか。

 

すると世尊は、偈をもって、このように答えて言った。

 

<合いの手>ここではじめて、お釈迦さまは口を開かれます。相手が怒りにまかされている間は沈黙をたもち、相手の怒りがおさまったときを待って、話かけるということなのでしょう。決して、何もいわないで黙ったままではないのですね。

 

「雑言と悪語とを語って/愚かなる者は勝てりと言う。

 

<合いの手>お釈迦さまは、決して“言い返す”という振舞いはなさらないのです。相手の怒りは、決して受け取る必要はないのです。道理をもって、相手に反省を促します。

 

されど、まことの勝利は、/堪忍を知る人のものである。

忿(いか)るものに忿りかえすは、/悪しきことと知るがよい。

 

<合いの手>いわば、ダメ押しです。でも、ここで終わりではありません。

 

忿るものに忿りかえさぬ者は、/二つの勝利を得るのである。

 

<合いの手>対論者の知的興味を喚起します。対論者ははじめて、お釈迦さまの説法を聞き入れる状態となります。 

 

他人(ひと)の怒(いか)れるを知って、/正念におのれを静める人は、

よくおのれに勝つとともに、/また他人に勝つのである。」

 

<合いの手>対応する漢文を指摘するのはむつかしいですが、以下のような表現は注意されます。

 

慧者無有瞋(307b04)以瞋報瞋者 是則爲惡人 
(b05)不以瞋報瞋 臨敵伏難伏(b06)不瞋勝於瞋

 

また、次のような記述もあります。

 

(306c29)不怒勝瞋恚 不善以善伏(307a01)惠施伏慳貪 眞言壞妄語

 

(307b17)勝者更増怨 伏者臥不安(b18)勝伏二倶捨 是得安隱眠

 

これは有名なもので、真理のことばです。

 

かくごとく説かれて、かの婆羅門もまた、世尊に帰依し、世尊のもとにおいて出家し、ひとり静処に住して、不放逸に、熱心に精勤して、ついに出家の目的を達し、阿羅漢の一人となることを得た。

 

<合いの手>かの婆羅門は世尊に帰依し、世尊のもとにおいて出家します。めでたし、めでたし、です。でも史実としては、そのようであったか疑問です。漢文では「如是懺悔已。時阿修羅聞佛所説。歡喜隨(307a09)喜作禮而去」が対応するようです。

 

でも肝要なのは、「忿るものに忿りかえさぬ者は、/二つの勝利を得るのである。」というお釈迦さまの教えです。