理趣経 第六段 金剛拳理趣品(金剛拳章、実動の法門)
第六段の心真言を明かす「金剛拳」という尊格の説明から始めます。
なお不空訳では「薄伽梵」とのみあり、その名を明かしませんが、梵文等には金剛拳vajramuṣṭiとあります。
『理趣釈』序分、衆(= 眷属parivāra, pariṣad)成就の解説部分より
「毘盧遮那の左月輪に在って、一切如來の三種祕密、金剛拳菩薩の掌に在るを表す。眞言行菩薩、輪壇(maṇḍala)に入り、灌頂を得るを以て(あるいは、以に輪壇に入り、灌頂を得るは)、如來三業[秘]密教(= 一切如来三密門・真言教)の修行(*bhāvanā)を聞くを得るに由って、世出世の殊勝の悉地を獲得し、無始の十種不善惡業を淨除して、障礙なき究竟の智を證得す。」
Ānandagarbhaは次のように解説します。「諸法は本性光明であるとのこの観修によって、あらゆる法をひとつにする拳がそこにある者が、金剛拳であって」。この後、『金剛頂タントラ』から、一句が引用されます。「真如(tathatā)であり、諦(satya真実)であり、偽り(*moṣa)でないことが、金剛拳(muṣṭi)であるといわれている。」(de bzhin nyid bden mi slu gang / rdo rje khu tshul du bshad do //VŚ P 172a8)髙橋先生<第二部>p.311参照
時薄伽梵 得一切如来智印如来 復説一切如来智印加持般若理趣
時に薄伽梵、一切如来の智印を得たまう如来は、復た一切如来の智印の加持なる般若理趣を説きたまう。
不空三蔵は、得一切如来智印如来を、金剛界マンダラ・不空成就(Amoghasiddhi)如来の異名であるとします。『理趣釈』「[得]一切如来智印如来とは、不空成就の異名なり。(中略)一切如来智印加持とは、是れ、三密門身口意金剛(をもっての加持)なり。」
[L] atha bhagavān śāśvata-sarvatathāgata-jñānamudrā-prāpta-sarvatathāgata- muṣṭi-dharas tathāgataḥ punar api sarvatathāgata-jñānamudrā-adhisthāna-vajraṃ nāma prajñāpāramitā-nayaṃ deśayām āsa : (tib.) de bzhin gshegs pa rtag pas yang
[T] 18 atha bhagavān sarvatathāgatajñānamudrāprāptaḥ sarvatathāgata-muṣṭidharaḥ sarvatathāgataḥ śāśvataḥ punar api-imaṃ sarvatathāgata-jñānamudrādhiṣṭhāna-vajraṃ nāma prajñāpāramitānayārtham abhāṣata –
そのときに、世尊(= 毘盧遮那)にして、一切如来の智印(jñāna-mudrā. 智である三密の印契)を獲得し、一切如来の拳(muṣṭi)を持する、常恒なる(śāśvata-)、如来は、またこの一切如来の智印[をもって]加持する金剛と称する、般若波羅蜜多の理趣の義(artha 意味)を説いた。
不空訳に見られない、したがって、それ以降の加筆になるのであろう「一切如来の拳を持する、常恒なる」について、Ānandagarbhaは次のように解説します。マンダラの中尊・大日、そして久遠の釈迦牟尼佛を意識した説明となっています。
真如(tathatā)なる金剛拳を持するからであり、二手(両手、金剛拳にして)最勝菩提(bodhyagrya-)の印契をお結びになられているからである。常恒なるとは、(一切有情の)輪廻がある限り(般涅槃せず、この世に)お留まりになられる、相続(saṃtāna. 心相続)が永久であること(nityatā)によって、常恒である。(de bzhin nyid kyi rdo rje khu tshur ‘dzin pa’i phyir dang / phyag gnyis byang chub mchog gi phyag rgya ‘ching bar mdzad pas so // rtag pa zhes bya ba ni ‘khor ba ji srid par bzhugs pa’i phyir dang / rgyun gyi rtag pa nyid kyis na rtag pa’o //)髙橋先生<第二部>p.343.
