こころの食べもの、身心の養い
(本投稿は、2017年3月度寺内法話会のために作文したものを少しだけ修正してのご紹介です)
食べ物(āhāra養い、保ち続けるもの)は美味しいな、有難いなと感謝の心でいただくからこそ、からだ・こころを養い、たしかに健康を維持してくれるのです。本日は、食べものに関するお釈迦さまのお考えを少し紹介し、「こころの食べもの、身心の養い」と題してお話しいたします。
僧侶の食事は、本来、托鉢(たくはつ)という修行によって得られるものであり、一日、朝とお昼の二食、もしくは一食のみ。いずれにしても正午までに摂るものでした。インドは暑い国ですから、早朝に布施された食べ物はあまり間をおかずにいただく必要があったからです。お釈迦さまは、ときには信者さまに招待されて食事をいただく機会がありましたが、そのときでも午前中のお接待となります。通常は他の僧侶と同様、夜明けの後、早朝の托鉢を実践されていました。
さてある日のこと。お釈迦さまは時至って、すなわち托鉢に適した時刻となって、衣を着(つ)け、鉢を持って、ある村に出向かれました。その村の人々は皆、なぜか、お釈迦さまに気をとめることなく、誰ひとりとして食事を施そうとする者がいませんでした。お釈迦さまに随って、その村に入られた他のお坊さまも誰ひとりとして食を得られません。どうしたことでしょうか。お経には「魔」(邪魔の魔)とあり、善事、功徳ある善き行いを妨げる魔障のものがお釈迦さまやお坊さまの尊いお姿を村人から見えないように隠したようなのでした。このようなことは、しばしばあったといいます。
食べ物が得られず、空腹のまま一日を過ごすことになったお弟子さまに対して、お釈迦さまは次のように説法されました。
食べものには九種がある。世間の四食と出世間の五種である。世間の四食とは、段食(だんじき)、触食(そくじき)、思食(しじき)、識食(しきじき)の四食(しじき)であり、禅悦(ぜんえつ)食、願食、念食、解脱食、法喜(ほうき)食の五種が出世間である。
出世間の食べものとは、智慧と慈悲から成る仏のいのち(智身)を育むための食べものをいいます。まず禅悦食は坐禅に励み、禅定(心の安らぎ、静けさ)によって得られた喜びをいいます。願食はすべての生きとし生けるものが幸せ・安楽であることを願いこと、念食は身口の働きに注意深くあり、粗暴な行いを慎むこと、解脱食は煩悩の汚れから離れる、言い換えれば、煩悩の束縛から解放されること、法喜食は、願食以下の法を学び、実践する喜びを食とすることをいいます。
このような食べものをもって、お釈迦さま、お弟子さまは 一日を過されたのでありました。たとえ托鉢で食べ物が得られなくとも、こころ豊かに、安楽に過ごされたのです。
僧侶の衣食住、お釈迦さま、お弟子さまの修行生活は、とくにその伝道初期のころは大変なだったようです。私たちも、時には食事を節制、ひかえめにして、仏法の実践に励む必要があるようです。南無釈迦牟尼仏、南無釈迦牟尼仏、南無釈迦牟尼仏
一方私たちの日常の食べものは世間の四食です。このうち、段食は「分々段々」といって、少しずつのかたまりとしていただく食べ物のことであり、通常の食事をいいます。仏典では香り(嗅覚)、味わい(味覚)、歯触り・舌触り(触覚)からなるとありますが、私たちの理解からすれば、眼(視覚)からも食べるということをも加えられます。色形の良いものの方が美味しそうですし、真っ暗闇なお部屋で食事をしても味気ないですから。「眼からも食べ物を食べている」、このような意味合いで、触食、思食、識食があります。これらはこころの働きのことをいうのですが、触食とは、外部からの情報を取り込み、認識・判断し、思食は、それに対する反応として意欲・思考を生み、そして識食は、それを記憶にとどめ、人格・性格を形成し、次の時代、次のいのちへと引きつぐ、といいます。掻い摘んでいえば、私たちは、外部からの情報を食べて生きている、ともいえるのです。テレビやラジオ、雑誌や書物、時にイラッとすることもある、お人とのお付き合いなど。否応なしに外部からの情報が大量に入ってきて、心がつき動かされ、喜怒哀楽しながら、日々を送っている。これが私たちの現状ではないでしょうか。まさに過食症気味、消化不良といった状態です。時にはテレビを消して、静かに過ごすことをお勧めします。
朝起きて、すぐにはテレビを点けないようにしています。外部からの情報の流れをひととき遮断して、静かな朝のひとときを楽しむ。それよりまして、外部からの情報をいかに消化するかということも大きな課題なようです。悲しいこと、苦しいこと、嫌なことがあっても、ひとつひとつ、心の肥やしとなるよう受けとめたいものです。『観音経』にある「生老病死苦 以漸悉令滅」というように。そのためにも、私たちは、正しい人生観、信仰をもち、願いや希望を失わず、ことば遣いや立ち居振る舞いには常に注意深くあり、心を明るく開いて、人のためになるよう心掛ける。仏法は諸行無常、諸法無我、一切皆苦という現実のあり方をありのままに受けとめ、栄養素として生かす、情報の消化剤という役目をはたしているともいえるようです。
以上をまとめるなら、私たちは口から食べ物を食べるように、眼や耳などからも情報という食べものを食べて、いのちを生きている。口から摂取した食べ物がちゃんと体の栄養素になるように健康に注意、摂生するとともに、情報という食べものを正しく消化できるように、こころを養う必要があるのです。そのためにも、お釈迦さまが召し上げっておられる五種類の食べものを人生の調味料として活用して、いただきたいものなのです。ご清聴、ありがとうございました。
本日のお昼ごはんです。
2024年6月に賞味期限がきていた「ボンカレーゴールド」です。
昨日見つけて、昨日もいただきました。

