わたしにとって、皆さまと理趣経の内容を共有するには、ある意味での覚悟が必要とされることなのです。仏典はさまざまに解釈されてもよろしいのですが、本筋をはずれてはいけない、間違ってお伝えしてはいけない、などです。第二段に入る前に、松長有慶先生の新聞紙面に記載されたコラムをご紹介しておきます。理趣経講伝の折り、先生が複写し、受者に配っていただいた資料のひとつです。
2005年9月13日社説(投稿先の新聞名は失念しました。)
今年、敗戦後六十年の節目の年を迎えた、あの年の八月十五日、真夏の太陽は遠慮会釈なく、灼熱の光を焼け野原一面に降り注いでいた。
勤労動員されていた工場の広庭で、正午の玉音放送を聴いて、がっくり肩を落とした。
親元から引き離され、ひもじい思いをこらえ、連日連夜の空襲に命からがら逃げまどいながら、軍需工場でひたすら勝つための生産増強に励んでいた十五歳の少年たちは、なにも考える気力なく呆然とその場に突っ立っていた。
しばらくして、一緒に立ち並んでいた級友たちからどよめきがおこった。これで家に帰れる。命が助かったのだと、やっと気がついたのである。
いつもであれば、午後七時、夜勤の人と交代した後、隊列を組んで帰っていた私たちも、その日は三時には解放されて、てんでばらばらに寮に向かって帰途についた。
一か月ほど前の空襲で、広い範囲に焼け焦げた市街地は、またそのままになっていた。だが遠くの山々は、いつものようにみどり濃くたたずみ、傍を流れる川は、相変わらずの水量を保ったままゆったりと流れていた。
【休憩】十五歳の松長少年が勤労動員された工場の場所はどちらであったのでしょうか。「親元から引き離され」とあり、親元から遠く引き離され、ではなく、遠くの山々、水量を保ったままゆったりと流れる川が、ヒントとなります。
国破れて山河あり、杜甫の詩の一節がふと頭をよぎった。学徒動員されていたとはいえ、戦時中の中学校での古典漢文の教育は、若い頭にしっかりと染み付いていた。
工場から帰る道すがら、一面の焼け野原の一角に、薄(すすき)の伸びている空地が残っていた。まだ日の高いうちから、なにもない寮に帰る気がせず、そのあたりに何気なく腰を下ろした。
家屋や橋は焼け落ちて、その残骸を無残な形でとどめていたけれど、一帯に雑草が勢いよく生い茂っていた。
茶褐色の焼け野原の中に、ぽつんと残る雑草の茂みを、しばらくぼんやりと眺めていた。少し離れて、焼け残った木立からは、ミンミン蝉のけたたましい鳴き声が、覆いかぶさるように聞こえてくる。
街の中心部にそびえているお城は、空襲ですでに跡形もなく焼失してしまっていた。杜甫の言う「城春にして」ではなく、そこでは城の姿はなく、時は夏の真っ盛りだった。ただ草の青さだけが、異様に目に映っていた。
【休憩】松長少年が勤労動員された工場の場所が、ここで明らかとなりました。「街の中心部にそびえているお城は、空襲ですでに跡形もなく焼失して」とあります。空襲で焼失したお城は八つと数えられるそうです。そのひとつに、和歌山城があります。この想定が正解であれば、「遠くの山々」は高野山、「水量を保ったままゆったりと流れる川」は紀の川となります。松長少年は、戦時中にあって、高野山のお大師さまを毎日心に念じていたのでしょうか。なお、このコラムのタイトルは「敗戦の日に見た 荘厳清浄の世界」であり、以下、理趣経に関連してのお話しとなります。
草が生きている。蝉も生きている。人間は空襲で焼け出され、敗戦のショックで気落ちして、姿を見せず、廃墟のようになった焼け跡に、命の息吹がさかんに燃えたぎっている。
雑草など、ふだんは見向きもしなかった。それよりも何か腹の足しになる草や野菜畑にばかり目が向かっていた。
だけどあの日、敗戦のショックの中で、ぼんやり眺めた焼け跡の雑草の異様な青さ、その生命のあかしを、とてもきれいだと無意識の中で思った。
敗戦六十年を生き延びてきて、いろいろ名所や観光地にも足を運んだ。すばらしい景観に息をのんだことも幾度もある。だがこのとき見た雑草の逞しさ、美しさを忘れない。
【休憩】今年は、敗戦八十年。いま松長先生は、私たちに何を語ってくださるのでしょうか。
仏門に入って、般若理趣経を読んだ。その時、「荘厳清浄句是菩薩位」の経文に出合って、はっとした。敗戦の日に見た雑草の生命力の輝き、それがこの句ではないか。「荘厳清浄」とは、美々しく飾り立てることではあるまい。
泥と廃材の中で、逞しく生命力をうたい上げていた青草の逞しさとその埃くさい匂い、やかましく鳴きたてる蝉の声、これらの充満する焼け跡にこそ「荘厳清浄」の世界があるのではないか。『理趣経』を読んで私はそう思った。
【所感】「荘厳清浄句是菩薩位」、「菩提の覚華を以って供養雲海を起こし、また方便を以って衆生に授与して、功徳の利を作さしむ」、「覚華を持して自身を荘厳し、衆生を利益す」とは、みずからにそなわっている生命力の輝きを、仏さまに見習って自覚し取りもどし、まわりのお方の幸せのために発揮することをいうのではないでしょうか。
先生のコラムとして、あと二つをいただいています。
