増谷文雄『仏教の根本聖典』第三篇 根本説法 第七章 無明説法より

無明流転pp.128-129.

 

出典は、南伝 相応部経典(Samyuttta-nikaya)XXII. Khanda-samyutta 99 無知(Gaddula or Bhaddula)、漢訳 『雑阿含経』巻第十、(266)vol.2, 69b4ff.です。

 

無明(むみょう)におおわれ、渇愛(かつあい)に縛せられて、流転し、輪廻する衆生には、その前(さき)の際(きわ)を知ることはできない

 

すなわち、

 

輪廻(りんね)はその始めを知らず、いわゆる「皆由無始貪瞋痴」です。

 

それに加えて、無明におおわれ、渇愛に縛せられる衆生には、

 

大海の水の尽きること、須弥山の崩れ堕ちること、大地が壊れはてることがあっても、

 

苦の尽きはてる際はない

 

と説いています。すなわち、

 

愚かなる凡夫は、聖者の法を見ず、聖者の法を知らず、聖者の法に順(したが)わず、色(しき。現象[もの])に執し、(縄にて縛し、杙または柱に繋がれた狗のように)色をめぐって同じ処を歩きまわり、いつまでも色を解脱せず、したがって苦を解脱することを得ない 

 

というのです。それは受、行、想、識についても同じように説かれます。では、輪廻を脱することはないのか、できないのかといえば、

 

すでに法を聞ける弟子たちは、よく聖者の法を見、聖者の法を知り、聖者の法に順って、色に執することなく、色をめぐって同じ処を歩きまわらず、よく色を解脱するがゆえに、したがって苦を解脱することを得る

 

と説いて、私たちを励ましています。それは受、行、想、識についても同じく説かれます。

 

懺悔文は毎日のようにお唱えしていますが、その意味するところはきわめて重いのです。

 

Khanda-samyutta XXII 99

3 Anamataggāyam bhikkhave samsāro pubbakoti na paññāyati avijjānīvaranānam sattānam tanhāsamyojanānam sandhāvatam samsaratam // //

 

に対応する漢文の主要な部分は以下の通りです。


如是我聞。一時佛住舍衞國祇樹給(69b05)孤獨園。爾時佛告諸比丘。於無始生死。無(b06)明所蓋。愛結所繋。長夜輪迴。不知苦之(b07)本際。

 

譬如狗子(69b18)繋柱。彼繋不斷。長夜繞柱。輪迴而轉。

 

多聞聖弟(69b26)子。如實知、色、色、色味色患色離。如實(b27)知受想行識。識集、識滅、識味識患識離故。(b28)不隨識轉。不隨轉故 脱於色。脱於受想(b29)行識。我説脱於生老病死憂悲惱苦。佛説(c01)此經已。時諸比丘聞佛所説。歡喜奉行

合掌