恩師・泰廣先生が、わたしたちに与えてくださった真言宗として解決すべき課題をあらためて考えています。先生はその課題に対する解決策を、いくつかの論文において論述し、すでにお示しくださっています。ここでは、「『大日経』――宗学と観法――」pp.137-194を読み返しています。
まず『弁顕密二教論』における次の記述が提示されます。
夫仏有三身教則二種。応化開説名曰顕教、言顕略逗機。法仏談話謂之密蔵、言秘奥実説。
それ仏(ほとけ)に三身(さんじん)あり。教えはすなわち二種なり。応化(おうけ)の開説を名づけて顕教という。ことばは顕略にして機に逗(かな)えり。法仏の談話(だんかい)、これを密蔵という。ことばは秘奥(ひおう)にして実説なり。
これは、顕教と密教の分け方を、能説の仏身、すなわち、それを説く仏身によって、所説の教法、説かれた教え、内容を分ける、ということを述べ、そのうえで、応身(おうじん)、化身(けしん)の説法は顕略であって対機説法であり、法身仏の教えこそ秘奥にして実説である、と理解するものです。
先生はこれに関して、三つの課題を引き出します(pp.138-139)。まずひとつめは、
[弘法]大師は[、密教経典(「密蔵」)、ここでは]『大日経』の教主・大日如来を、なぜ法身仏であるとされたのか。釈尊中心の仏教から、なぜ大日如来に中心を移したのか
というものです。これを説明すれば、菩提樹下における釈尊の成道に始まり、それ以後、釈尊の生涯をもっての説法を通して展開した仏教(「顕教」)に対して、密教経典(「密蔵」)、すなわち『大日経』『初会金剛頂経』は、なぜ「古仏成菩提の処」とされる、アカニシュタ天処における大日如来の成道(abhisambodhi「成仏」、abhisamaya「現証」)をテーマとしているのか。それをうけて、「法仏の談話」を主張された弘法大師の意図とは何か、ということになります。
二番目の課題として
釈尊を中心とする仏教から、中心を大日如来に移すことによって真言密教に開かれた世界はどうなのか
とあります。ここでの「どうなのか」は「どのようなものなのか」と受け取ります。これは、『大日経』『初会金剛頂経』には何が説かれているのか、ということです。法身(dharmakāya)という概念は、はじめは「教法法身」として、次いで大乗仏教における仏身観の展開のなかで、変化身、受用身に対して「真如」に等値される概念として教理体系化されました。さらには法身が説法を行うという考え方も示されることになります。しかし、法身が説法される教えを、実際に説いた仏典はいままでなかった、というのです。それは悟りそのものに相応することばがない、見いだせなかったからにほかなりません。したがって、大師は顕教の経典では仏の極意が説かれていない、これに対して密教は「自受用法性仏の内証智の境」(『二教論』)を説くというのです。その説き方は、『初会金剛頂経』では「自受法楽」としての「三密門」であり、マンダラの生起です。『大日経』はそれを「云何が菩提となれば、謂わく、実の如く自心を知るなり」(如実知自心が悟りである)と示します。「如実知自心」が悟りそのものであると端的に示し、『大日経』は、わたしたち自らの心を詳細に分析したうえで、仏教思想、密教的発想を用いて浄化する手段を説き明かしているのです。
三番目の課題は
法身仏としての大日如来のお説きになった『大日経』は、応身仏、報身仏によって説かれた顕教の経典と異なった読み方をすべきである。では、どういう読み方をすればいいのか
というものです。ここでは、宗学という概念が問題となります。先生は、文献学を用いた客観的事実にもとづく近代仏教学との対比において、主体的実存をもってする宗学を「伝統教学」ととらえ、次のように説かれます。
宗学 ―― ここでは真言宗学です ―― は、弘法大師の悟境を常に時代とともに模索[・探求]することにある。それは同時に、自己自身の如実知自心の道であります。
弘法大師の悟境は、先生の考えられるように、生理学・心理学を駆使(くし)する三密瑜伽の行法である、悟境体得の道・阿字観を通してはじめて開かれるのであり、菩提心の開顕と大悲の万行とをもって、方便行として実現化され、いま現実社会で起こっている諸問題に対処すべき課題を有しているのです。それが超越即内在、超歴史的な法身・大日如来の説く教えを読むということなのです。
これから『理趣経』を読むことになります。『理趣経』は、『初会金剛頂経』と同意趣で、大日如来と金剛薩埵をはじめとする十七尊、八大菩薩との間で交わされる「自受法楽」としての「三密門」であるのです。