善き師、悪しき師(第四編 対機説法 より)
『阿含経典による 仏教の根本聖典』増谷文雄、大蔵出版1983, pp.154-161
『長阿含經』卷第十七 佛陀耶舍・竺佛念共訳、第三分「露遮經」第十
DN.12 Lohicca S.
(人が、いかなる)善き法を知った(= 理解した)として(も)、その証知せる法を、他の人々のために説くべきではない。なぜなら、それは古き縛(いましめ)を解いて、さらに他の新しい縛を施すに等しいから。人は他の人々のために“何をなし得ようか”(何もすべきでない)と悪しき見解をいだくローヒッチャ(露遮)婆羅門に対して、お釈迦さまは、非難される三種の師のあり方の説明を通して、「真実の師」、ここでは「善説」とは何か、について説諭しています。
非難される三種の師とは、
出家し修道しながら、いまだその目的を証得(= 正しく理解)することなく、法を説くもの
出家し修道して、いまだその目的を成就(= 完成)することなく、法を説くもの
出家し修道して、よくその目的を証得(し、成就)することを得て、法を説いたとしても、その弟子たちは彼の言(ことば)をきかず、道にいそしむ心なく、教えから離れてゆく場合の師
となります。第三の師の何が非難されるのでしょうか。それは以下に引用するお釈迦さまのことばから、おのずから知られることになります。
ローヒッチャよ、いま世に如来は出現した。如来は応供である、明行足である、仏陀である。世間一切のことを独自に証悟して、これを人々のために説く。その語るや、初めよく、中もよく、終わりもよく、義理と文言をともに具足して教法(おしえ)を宣(の)べ、かつ清浄なる実践をば教える。その弟子たちは、如来の教法をきき、如来に対する信をいだき、出家して道にいそしみ、よく戒を持し正行にはげみ、諸欲を滅しつくして、寂静不動の境地にいたる。ローヒッチャよ、かかる師は世に難ずべからざる師である。
太字強調部分はいわゆる「正法」の定型句でなります(法を説くことば 初中後善2025/06/05参照)。正法を善く語ることが可能なのは、如来のみかも知れません。同じことを語っても、伝わり方がちがうのは、自然に感じ取られる“人格”が左右するのでしょう。私などが、常に悩むところです。ただし、正法はひとり如来のみの享有すべきものでなく、他の人に頒(わか)ち与うべきものなのです。
『阿含経典による 仏教の根本聖典』増谷文雄は、読み返す図書として常に身近においています。抜粋と要約をもって、随時、ご紹介できればと考えています。