十、十地 上 [浅略の釈]
本経には三劫の法門の次に十地の説がある。この十地には種多の義あるも、今経の文相より見たる浅略の釈と、(経疏に明かされるところ)その深秘の意を一応述べようと思う。その文相より見れば、八心、三劫、十地は相い貫通せる(= 一貫し、連続する)法門にして、八心は一向行悪業の人、善心を生じ、道徳を遵守し、遂(つい)に天神(天界の神々 *deva)を尊信するに至る[仏教に帰依する以前の]浄心生起の相を明かし、三劫は神我(*ātmanが実在すると)の迷執を破る無我・空義の浅深の次第を説かれたるものなることは前段所述の如し。その第三劫において一心の本性も不可得・空なりと悟了し、一心にも執滞せざるとき、主客の細念たる極細妄執をも断尽し、真に(= 真実に)虚空無垢の大覚の体に契合するは第三劫の究竟位(= 秘密荘厳住心)にして、(それが)また十地の最初たる初地・歓喜地である。三劫を経て十地に帰する旨を明かすより(= このように、三劫・三妄執を越えて、初地に達すると説明することからすれば)、常に、三劫は十地の前に建つる法門なりというも、こは(= これは)その(浅略釈の)大綱論である。
【要旨】八心、三劫、十地はそれぞれ連続し、一貫して、心が昇進していく心相を説く法門であり、第三劫の究竟位が初地・歓喜地(= 発菩提心)となります。
(浅略釈も)細かに見れば、第三劫に遮情と表徳との両意あり。主客の細念[たる極細妄執]を絶する遮情の辺は第三劫の当分(= ここしばらく、さしあたっての理解)にして、この主客の細念[たる極細妄執]を絶すると共に毘盧遮那如来の大覚の体に契合し、無尽の万徳を開見し、我身即仏の自覚を成ずる表徳(、第十住心として)の位は、この十地最初の初地である(Cf.「初地即極」の論則。初地に入ることによって、直ちに証位に入ることも可能となる、というとらえ方)。しかして、毘盧遮那大覚の体に契合し、遍法界の自心性を体得し、一切世界の衆生を悉く度し尽くさん(= すべての有情が大菩提に至りますよう励みます)との(、十信にもとづく)大願力(個々には、十無尽界において、十大願)を生ずるに至る十地の初位たる歓喜地(= 信解地)を、かの三句に配すれば、これ菩提心為因の位である。化他・大慈悲の万行に依り、大願力をして堅固ならしむるは、第二地以後、第七地に至る位にして、これ三句の中、大悲為根に配すべきである。常途仏教の説に依れば、第八地以上は任運無功用(にんぬん・むくゆう)、すなわち無意識にして(= 意志的努力を加えないで)、浄心の転起する旨を明かすより、本経には第八、九、十の三地をば方便為究竟の義(= 方便地)に配す。しかして本経にはさらに方便為究竟を開いて、上々方便の一位を立て、十地を超えたる第十一地の上々方便位を最極究竟の仏果の体なりとす。
【要旨】十地は、表徳門としては、三句に配当されます。初地 菩提心爲因、第二地~第七地 大悲爲根、第八、第九、第十地 方便爲究竟。
十、十地 下 [深秘の釈]
以上は本経の文の上に顕れたる浅略釈の一端なるが、本経の疏には、本経に説ける十地には浅略、深秘の両意あるも、その本旨は寧ろ深秘釈のうちに存することを述べていわく、
この経宗には、初地よりすなわち金剛宝蔵に入ることを得るが故に、華厳の十地経の一々の名言(は)、阿闍梨(= 善無畏三蔵)の所伝に依らば、皆須らく二種の釈を作すべし。一には浅略の釈、二には深秘の釈なり。もし是の如くの密号(みつごう)に達せずして、ただ文に依って之を説かば、すなわち因縁の事相、十住品(十地品)に往き渉る。もし金剛頂の十六大菩薩生を解せば、自ずからまさに(十地の一一の名称は密号であることを)証知すべし。(『大日経疏』巻第二 十地の深秘釈2025/07/28)
しかして、その十地の深秘釈なるものに種多の義あるも、その主なる点を挙ぐれば、
【要旨】十地に対する、「初地よりすなわち金剛宝蔵に入る」(= 下記の第二の義。「自家仏乗の初地」『即身成仏義』)をうけての深秘釈。真言門の行者の位階は十地にて尽くす(= 同第一の義。Cf.「初地仏果」の論則)、十地の外に佛果を立てざる(= 同第三の義。「十と十六は開合の不同(法・人)」)、ということ。泰廣師は「十地は自心本具、法身如来所具の万徳を別開した位であって、修行によって積み上げた境地(= 位階)ではない」と表現します。
一、本経の釈文より見れば、十地の前に三劫、六無畏あり、十地の後に第十一地の仏果を立つるも、その深秘釈よりいえば、真言門の行者の位階は十地にて尽くす。すなわち地前の三劫、六無畏は初地に摂し、また第十一地の仏果をば十地の最後位たる第十法雲地に該摂す。
二、十地の最初の歓喜地の一位に自証の成仏円満すること、及び第一地より第十地に至る各々の地位は、次第浅深あるにあらず、同じく一功徳を表現せるものなること。
三、十地はこれ菩薩因位の境なるも、この因位に佛果を摂し、十地の外に佛果を立てざること。
【注意】以下、論旨が複雑なようなので、[ ]内に、筆者による多少の補いを加えています。
以上の教意を約述せんに、凡そ十地とは一般仏教の説よりいえば、これ、菩薩が修行して、佛果に至る行位中の最上級(= 最上位の階梯)である。すなわち十信、十住、十行、十回向の四十位の修行に依り、[ようやく]真実智を発こし、法性の体を体得するに至る位を十地[、等覚、妙覚]という。此の如く(= このように)十地は、菩薩の修行に依り、真実無漏の功徳の顕われたる境地にして、凡夫が正しく佛子として、如来家(tathāgata-kula仏道、聖者)に生まれ出でたる[、初地・歓喜地より始まる行]位である。されば、華厳の十地品には十地は是れ菩薩の最上の妙道、最上の明浄法門なるゆえ、三世の諸仏(は)皆この十地を説きたまうことを明かし、龍樹菩薩の十住毘婆沙論や、天親菩薩の十地経論等に委釈あり。これらの説に依れば、十地の菩薩(は)、自証・化他の徳を成就し、遂に真実無上の仏果に到達すべきこと、たとえば阿耨達池より四河流出し、四天下を灌沃し、後に大海に入るが如く(Cf.『大日経』住心品 十縁生句 泡のたとえ2025/08/14)、菩薩も亦た是の如く、菩提心より善根・大願の水(= 大悲万行)を出し、四摂(布施、愛語、利行、同事)を以て、衆生を利益し、十地次第に順行し、遂に一切智智の佛果に趣向することを明かす。これらの説は、十地は菩薩の最上位なるも、これなお因位にして佛果にあらず。密教にてもかかる一般仏教の説に準じ、四十二位、または五十一位の階級を立つることあり。かく四十二位、あるいは五十一位の位階を建つるときは、一般仏教の所説と同じく、十地は菩薩の最上位なるも、これ佛果に至る道程にして、因位の境を出でないのである。
【要旨】十地の深秘釈・経の説相とその解釈
しかるに真言密教には、かかる四十二位、あるいは五十一位の説によらず、ただ十地、または十一地(= 仏地を開立して上上方便とする)を以て菩薩修行の位階を明かすことあり。しかして今[疏が明かすところの]本経の意(= 意図)は、十地を以て真言行者の位階を示すものである。この義よりいえば、十地の前に種多の階級を立てざると共に、また十地以上に佛果の実在を見ず、因果の諸位、すべて十地に該摂するのである。
ただし本経の説相に依れば、十地の前に八心、三劫、六無畏の階級あり。この三劫、六無畏を経て、十地の最初の初地に入り、順次第二地、乃至第十地を経(へ)、第十一地に於いて究竟の佛果を成ぜらるべきことを明かす。すなわち
三劫
初劫 第一 善無畏、第二 身無畏、第三 無我無畏、第四 法無畏
二劫 第五 法無我無畏
三劫 第六 一切法平等無畏
十地
第一 歓喜地、第二 離垢地、第三 発光地、第四 炎慧(= 焔慧)地、第五 極難勝地、第六 現前地、第七 遠行地、第八 不動地、第九 善慧地、第十 法雲地
三劫、六無畏を経て十地に帰入すべきが故に、真言門修行者の位階は、十地のみにあらざるやと思惟せらるるも、而も、十地を以て真言行者の位階をつくす説(= 前述の深秘義の第一)よりいえば、[まず、]三劫は所断の惑と能断の智とに相対し、以って、法性の真際に趣入する相を明かすもの(= 同第三)なれども、これ[は]顕教より密教に入るいわゆる迂回の機根の修行入証の相(= すがた、特徴)を説かれたるもの[であり、それ]に[対]して、直(じき)に(= その始めから)真言行者の入証の位階を示されたるものにあらずと見らるる義あり。また六無畏は正しく真言行者の経べき(= 経過すべき)位階なるも、而も一念に本覚の真性に契合し、初地の佛果を体得する証境をしばらく別説し(= とは別に)、之を小乗、三乗、一乗教の浅深すなわち客観、主観、絶対と次第して法性に悟入する一般仏教の説に準じ、以て六無畏の位階として示されたるものなりとも見られ、また一念に初地の佛果に契証すること(= 同第二)容易ならざるより、初地の前に三劫、六無畏を開き、以て漸次趣入の道を開示し、初地入証の次第を明かせしものなれば、三劫、六無畏は初地に摂せらるべきが故に、究竟していえば、地前の諸位は初地の一位を出でないのである。かく十地の前に立つる諸位を初地に摂し、一切の位階を十地にてつくすと共に、初地の一位に於いて自証の成仏を究竟する秘義を明かすものである。
【要旨】密教は果上の法門である、ということ
一般仏教の初地、二地、乃至、十地を経(へ)、以って、無上大覚を成ずる説に対し、密教は初地の一位に自証成仏を円満すというは、これいわゆる密教は果上の法門なるゆえである。たとえば、王は子(= 王にとって、その子は)、生まれながらにして王位を継承すべき徳あるが如く、毘盧遮那法身の大覚の体(は)、一切処に遍在し、一切衆生は毘盧遮那大覚の体に連らなる佛子なるが故に、深くこの秘義を体得せば、当位(= 個別)即絶対にして、地々遷登し第十一地に至らずとも、初地の一位に於いて究竟成仏すべき(= さとりを体得しうる)である。されば本経には
信解地は無対なり、無量なり、不思議なり。十心を建立し、無辺の智生ず、等
といい本経の疏には
行者これより待対あることなく、心量を出過せる不思議地なり、十心(= 種子から成果までの八心と殊勝心、決定心)あり無辺の智生ずとはすなわちこれ初地の果相なり、云々(『大日経』十地の真実 三心・十心2025/07/2)
【要旨】第二地以降の解釈の仕方
十地の最初たる初地の一位に自証成仏を円満せば、第二地以上の地位を設くる要なかるべきはずなるに、初地自証円極を明かす密教に、第二地以上の地位を立つるにつき、中古の学者の説にいわく、初地に自証円満するも、一般仏教の説に準じて第二地以上を開立せしものである。或(= ある者)はいう、初地の徳を開いて第二地以上の次位となせしなり。またはいうべし、二地以上は化他の徳に約して開きしものなりと。要するに一般仏教の説によれば、十地の地々に各々一波羅蜜(= 布施波羅蜜から般若波羅蜜までの六つ、そして方便、願、力、智の四波羅蜜)の徳を成就し、地々遷登し、十地の間に十波羅蜜を具し、第十一に至って、究竟の佛果を円成することを明かすも、密教は初地に自証成仏円極するが故に、初地以上は皆これ佛乗の功徳を開きしものなれば、十地に高下浅深なし。され『秘蔵記』には、密教にいうところは横の義なり。初地と十地と高下なし(Cf. 第57章)、といえり。
【要旨】十地の外に佛果の実在を説かずして、差別智印を十地の因位とし、一味平等の徳を佛果の一位とする。
なほ前叙の如く浅略釈よりいえば、十地の外に佛果を立つるも、深秘の義に依れば、十地の因位に佛果を摂し、十地の外に佛果の実在を説かず。しかる所以は、佛果の体たる如来の大覚は一切に遍じ、万法の外に佛果の別体なきゆえである。すなわち、佛果に法、報、応の三身あり、その報身、応身は十信、十住、十行、十回向、十地の菩薩に応同するがゆえに、これら因分に同じ、果分の別体なく、またその法身の体は諸法に遍満すれば、また果位の別相として求むべきなし。かくの如く如来の果体、全く因位に同(どう)じ、因位の外に果体なき実義より見れば、因位各々の功徳の当体(= 個別・相対は)皆これ如来の具徳(= 普遍・絶対)を表現せる差別智印(= 特殊)である。この一々の智印(は)万徳を具し、一味平等である。しかして差別智印を十地の因位とし、一味平等の徳を佛果の一位とす。浅略の釈に依れば、差別智印の外(ほか)に一味の功徳の体(が)存するが如く説くが故に、因分の外に果分を開立するも、もし深秘の実義よりいえば、差別(しゃべつ)の智体各々一味の覚体を具し、互いに法界に遍じ、差別智体の外に一味の果体なし。本経に、初地の位に如来の果体を体得す(Cf.「此の除一切蓋障に住する菩薩は、信解力の故に、久しく勤修せずして、一切佛法を満足す」)といい、あるいは、この生に十地を満足す(「初発心より乃(いま)し十地に至るまで、次第に此の生に満足す」)というは、皆な如上の秘義に依るものである。すなわち一切衆生その自体を動ぜず、而も如来大覚の境に住す。この秘義を自覚せば、凡夫の身を捨てずして如来家に生じ、佛子たり、菩薩たるべきである。真にこの自覚に住せば、一切の動止施為(= 所爲、所作)皆なこれ如来の功徳を表現せるものである。これを十地の因位、即佛果位という。十地はかの九句の中、浄菩提心の功徳の差別を明かす(第九)心殊異の答説なり(「第九・殊異心とは、瑜伽行者修得の浄菩提心殊異の義を問う句なり。殊異とは菩提心浄品の功徳種々に差別せるをいう。この句は因根究竟の三句に通ず。」『密教大辞典』)というが、これらの教意より見て、十地の真趣(= 真実の意趣)を思うべきである。
【要旨】十地は第九句・心殊異の答説でもある、ということ。