昨日、お釈迦さまの十大弟子について、お話しいたしました。参考図書は『雑学3分間シリーズ 仏教』PHP,2005です。(ここでは、その六人までのご紹介です。)
釈迦の弟子たちのなかには、さまざまな人物がいましたが、とりわけユニークな10人の弟子を十大弟子と読んでいます。彼らはそれぞれ得意なジャンルをもっており、それぞれ「〇〇第一」と呼ばれています。
(補説)さとりを開かれたお釈迦さまが、初めての法輪を転じられたのは、難行・苦行を共にした五人の同行者(= 五比丘)に対してであり、彼らもただちに法眼を得、最終的に阿羅漢と呼ばれる無学にして、すぐれた智慧をそなえた聖者となりました。次いで、その鹿野苑の地において、長者の子・ヤサが教導され、ヤサの友人54人の出家があり、お釈迦さまの成道数か月で、阿羅漢が60人(61人)となったといいます。その地で三か月の雨期を終えると、阿羅漢たちによる各地への宣教活動がはじまり、一方お釈迦さまはマガダのウルヴェーラに向かわれます。そこで、カッサパ三兄弟を教化し、彼らの弟子1000人も彼らに従いました。このように成道後半年足らずでしょうか、お釈迦さまの教団は急速に拡大していったのです。ただ、この中には、いまだ十大弟子の名は見えません。
十大弟子の得意ジャンルと業績
十大弟子のなかでも、もっとも大きな功績があった(、すなわちお釈迦さまの教えを広めるのに貢献した)のは、智慧第一と呼ばれるシャーリプトラ(舎利弗/舎利子)と神通第一と呼ばれるマウドガリヤーヤナ(目連/目犍連)の2人でした。彼らはともに、懐疑論者サンジャヤのもとで修行を行っていましたが、[舎利弗が、五比丘の一人である馬勝・アッサジの托鉢の姿を見、それが機縁となって、目犍連を誘ってお釈迦さまを訪ねることとなります。彼らは、お釈迦さまの]教えに感銘を受け、[その後、サンジャヤの弟子であった二百五十人とともに出家を許され、]教団に加わりました。
(補説)舎利弗が、まず馬勝から聞いたお釈迦さまの教えがいわゆる縁起法頌(法身偈)であり、それについては、すでにご紹介いたしました。(お釈迦さまのご生涯について2025/09/01)。なお釈尊が千二百五十人の比丘衆をつれておられたと、しばしば経典に説かれているのは、三迦葉の徒・千人と、舎利弗、目犍連の徒・二百五十人とを加えた数をいいます。
マハーカーシャパ(大迦葉)は清貧の行者として有名で、頭陀(ずだ)第一(頭陀行第一edaggaṃ dhūtavādānaṃ)と呼ばれ、[仏滅後、五百人の阿羅漢による]第一結集(仏典編纂会議)を主催しました。スブーティ(須菩提)は空性(くうしょう)の理解に優れていたため、解空第一(「解空・無諍第一」無諍は、争いなき生き方)と呼ばれ、空思想を説く般若経(たとえば『金剛般若経』など)にしばしば登場します。プールナ・マイトラヤニープトラ(富楼那)は説法に巧みであり、説法第一の人と呼ばれ、また。マハー・カーティヤーヤナ(大迦旃延)は論議(=教えの意味を分析して、詳しく解りやすく解説すること)第一の人を呼ばれました。
(補説)富楼那が意を決して、いまだ仏法が伝わらず、気風荒々しくとうわさされる、はるか西の地方スナーパランタに伝道にゆこうとするときの、富楼那の身を心配するお釈迦さまとの対話が、相応部に伝えられているといいます。「もしも彼らが刀剣をもってなんじの生命をうばいなば、なんじはどうするか」。それに答えて、富楼那は「大徳よ、世尊の弟子中には、その身をいとい、その命になやみ、みずから剣をとろうとしたものもあったやに聞いております。しかるに、もしそのようなことあらば、わたしは、みずから求めずして、そのことを成就しうるのであります」と語るのです。大迦旃延もまた、ブッダ未踏の地・アヴァンティの都・ウッジェーニーの出身である、といいます。大迦旃延の解説する教えとして「一夜賢者の偈」があります。