『大日経』の経題解釈 『大日経開題』法界浄心を踏まえて

 

 大毘盧遮那(Mahāvairocana)成仏(abhisabodhi)神変(vikurvita)加持(adhiṣṭhāna)経。『大日経疏』には、大毘盧遮那成仏神変加持大広博(vaipulyasūtra)因陀羅王経(sūtrendrarāja)。

 

 弘法大師の『大日経開題』法界浄心に基づいて、『大日経』の経題解釈を示します。引用箇所は、勝又俊教『弘法大師著作全集』第二巻をもって示しています。

 

 竪横無辺際の故に「大」なり、数量過刹塵の故に「大(= 多)」なり、最勝最上の故に「大(= 勝)」なり。(中略)この大の名普く下の諸字に被らしむ。(勝又本p.187)

 

 大(mahā摩訶)の意味を、大(竪横無辺際)、多(数量過刹塵)、勝(最勝、最上)と示し、多義性でもって解釈しています。次いで、この「大」の解釈をもって、教主・毘盧遮那の仏徳を讃嘆します。

 

毘盧遮那佛身口意業遍虚空(「歸命毘盧遮那佛 身口意業遍虚空」金剛智訳『金剛頂經瑜伽修習毘盧遮那三摩地法』大正蔵No.876,vol.18)等という。是くの如き等の文は、如來の四種法身(自性法身、受用法身 = とくには、自受用応身、変化法身 = 他受用応身、等流法身 = 三界六道随類の身)、四種曼荼羅身(大、三、法、羯)、三密業用、一切處に遍滿することを表す。故に初(= 経題)に「大」の言を挙げて塵數の徳を讃す。大日の四種身、其の數、塵數に過ぎたり。此の大の名も、亦復た是くの如し。(p.187)

 

 教主・毘盧遮那に「大」を付して、本経の中心概念となる「大日」が自性法身であること、および時間・空間等のあらゆる制限を超えた常恒三世・遍一切処、すなわち絶対的な(= 相対を絶した)仏格であることをいいます。

 

大毘盧遮那とは自性法身、すなわち本有本覚の理身なり。(中略)大とは、若し一切の物事、彼此相望するに必ず有大小の名有り。(中略)今、謂うところの大とは、究竟最極の大、即ち大が中の最大なり。世間所見の大の以って出世幽遠大を顕わす。(p.192-3)

 

毘盧遮那 毘盧遮那とは、或いは日の別名という。除暗遍照を義とす。或いは光明遍照(「光明遍照盡衆生界」菩提金剛譯『大毘盧遮那佛説要略念誦經』大正蔵No.849,vol.18)といい、或いは高顯、廣博と説く。(p.187)

 

 毘盧遮那は、梵語vairocanaの音写で、「遍照」(ひかり輝くもの)を意味します。『大日経疏』では、天空の太陽の属性に寄せて、「能成衆務」、「光無生滅」の義をもあわせて示されています。

 

 廣博、高顯が隣接して言及される用例として、菩提流志譯『一字佛頂輪王經』(大正蔵No.951, vol.19)があります。「佛神力故令此場地。廣博嚴淨光明普(224b04)照。一切奇特妙寶積聚。無量善根莊嚴道場。(b05)其菩提樹高顯殊特。瑠璃爲幹妙寶枝條。寶(b06)葉垂布猶若重雲。雜色寶花互相間錯。大寶(b07)摩尼以爲其菓。

 

成仏(成三菩提abhisabodhi)の 成とは、不壞の故に、不斷の故に、不生の故に、不滅の故に、常恒の故に、堅固の故に、清淨の故に、無始の故に、無終の故に、此れ則ち法爾所成にして、因縁所生にあらざるが故に。(中略)是くの如くの無量無邊(福・智の)徳義を圓滿するが故に成という。此の成は、上の大の字を承くるが故に、即ち是れ成就の成なり。(p.188)

 

 成仏せる仏は、受用身(自受用・自証、他受用・化他)のうち、自受用、すなわち修得、始覚智身として姿を現わすが、自受用、他受用等ともに、絶対的な仏格である大毘盧遮那、すなわち本有本覚の理身としてあり、その「成」は因縁によって成る(因縁所生)のではなく(、さらにいえば、法縁によって、繰り返し、それぞれが成るのであるが、本来は)法爾自然に成っていること(法爾所成。一切智智、五智無際智)、その意味で、「絶対の成」(大成就の成)であることをいいます。

 

 佛とは梵語の略なり。具さには、沒駄(buddha人)という。翻して覺者という。覺(bodhi法)というは、不眠を覺と名づけ、開敷を義となす。又た常明の故に、照了の故に、如實知見の故に。一切の賢聖・一切の凡夫に各おの分覺有り、然も未だ究竟せず。如來は兩覺圓滿(自覚・覚他、覚行円満)し洞達するが故に、覺という。此の覺、亦た因縁所生に非ず、法然所得なり。(p.188)

 

 分覚・大覚の用語を用いて、成仏の仏、その体である覚(boodhi法)を法然所得とします。分覚(および満覚)の用例に、龍樹造 筏提摩多訳『釋摩訶衍論』(大正蔵No.1668, vol.32)「隨覺門中即有二門。云何爲二。一者(616b04滿覺門。二者分覺門。滿覺門者明一覺故。(b05分覺門者。具足顯示覺不覺故。」があります。

 

神変vikurvita

 古代のインド、そして仏教においても、特別な修行(i.e.瑜伽yoga)を実践することを通して、常人にはない特殊な能力、奇跡を起こす超常的な能力(神通abhijñā) が備わり、それによって(、さらにはそれ以前に行った善なる行いと慈悲の気持ちがともなって)、不思議な現象(神変vikurvita, prātihārya)を現わすことができるとする理解があります。以下は、その神変についての大師の解釈です。まず定義が示されます。

 

神変といっぱ、測られざるを神と曰い、常に異なるを変と名づく。即ち是れ、心の業用なり。始終知り難し。三種の凡夫は識知すること能わず。十地の聖者も、未其の邊を知らず。唯し佛のみ能く知り能く作すが故に、神変という。(勝又本p.189)

 

 「心の業用」とは、身口意の三種の行いのうち、心の働きがもととなって、という意味なのでしょう。

 

 次いで、神変を、上流転変・下流転変(『釈摩訶衍論』第六)の所説をうけて、四種とします。

 

此の神変、無量無辺なり、大に分り四とす。一には下転神変、二には上転神変、三には亦上亦下、四には非上非下なり。(同頁)

 

 このうち、亦上亦下については次のようにあります。

 

亦上亦下とは、法界の身雲、恒沙の性徳(、すなわち毘盧遮那の功徳は、一切の支分より生じて、)形として形ならずということなく、像として像ならずということなし。一切の形像をもって一切の法性塔(= 六大法性塔)となす。是れ則ち、上に臨むれば則ち下、下に臨むれば則ち上なり。並びに皆な四種身を具して(、凡夫、二乗、一乗、自眷属に対して)大神通を起す。(p.190)

 

 下から上に臨めば下転、上から下にめば上転となる。上の光が深く下に浸透するほど、下は上へと昇華する、ことをいいます。

 

加持adhiṣṭhāna

 『大日経開題』(法界浄心)における加持解釈は、特異であるとされます。それは加持を加と持に二分することは、『即身成仏義』を踏まえてのことなのですが、主客の相対性を無化して、絶対的な概念とするところに特徴がある、とされるのです。

 

加持とは、古くは佛所護念といい、又は加被という。然れども未だ委悉を得ず(= 十分ではない)。加は往來渉入を以って名とす。持は以攝して散ぜらるを以って義を立つ。即ち入我我入(は)是れなり。(p.190)

 

 具体的には、次の通りです。

 

阿(a)等の六字は法界の體性なり。四種法身と十界の依・正とは皆な是れ所造の相なり。六字は則ち能造の體なり。能造の阿等、法界に遍じて(而)相應(= yoga)し、所造の依・正は帝網(帝釈天宮の天上を覆う珠網が相互に無限に照らし合う)に比して無礙なり。此も往(い)かず彼も來(きた)らずと雖も、然も猶お法爾瑜伽の故に、能・所なくして、而かも能・所あり。(同頁)

 

 三密の瑜伽行において(わたしたちが)成仏するのは、(以我功徳力 如来加持力 及以法界力が融合する)この加持(とも呼ばれる、このyogaの状態)においてなのです。

 

 次いで、経題を四種法身、三大、人・法・喩に配釈し、そして字相・字義(ma ha vi ro ca na bhi saṃ bo dhi [ti sva ?])をもって、すべて、大日の種子真言である阿(a)字が、この経の体であること示して、『大日経開題』(法界浄心)は、ひとまず筆をおいています。

 

 経題を四種法身に配釈するとは、以下のようなことをいいます。

 

大毘盧遮とは自性法身、即ち本有本覺の理身なり。次に成佛とは受用身なり、此れに二種あり。一には自受用、二には他受用にして、(いずれも)修得、即ち始覺智身なり。神變とは他受用應身、即ち變化法身なり。加持とは等流身、即ち是れ三界・六道隨類の身なり。若し四を攝して三となさば、神變・加持を合して一となす。即ち、法(大毘盧遮那)・應(成佛)・化(神變・加持)の三身、次いでの如く知んぬべし。(pp.192-3)

 

 泰廣師は以上を踏まえて、大日経の経題を次のようにまとめておられます。

 

 大日如来の自証成仏の体から、(成仏の相、)神変加持の用をあらわし、一切衆生を悉く大日如来の覚位に引入しようとする秘義(= 一切如来の秘要の蔵)を説く、そのスケールは広大で、一切経の中で威徳特尊なる経である。

 

 私もそれを踏まえて、次のように表現します。

 

 ビルシャナ法身(大毘盧遮那)としてのさとり(本有本覺の理身。一切智智、五智無際智)が(ビルシャナ法身としてのさとり・始覺智身を契機として)身語意味平等無尽荘厳蔵の示現、すなわちマンダラの出現(神変)を通して、わたしたちの住むこの法界に展開し、わたしたちをさとりへと向かわせるべく、利益・救済の活動をつづけていること(加持。上に、かさねて置かれた。遍く覆い尽くされている)を説きあかす大乗経典

 

 以上です。合掌