胎蔵マンダラ(14)地蔵菩薩
本投稿分は、このブログを始める前に、書きとどめたものを少し訂正して、先の「地蔵菩薩のご真言 『大日経』」とあわせて、ご紹介するものです。その時は、(ジグソーパズルの)種字マンダラを用いて説明していました。
胎蔵マンダラにおいて、その北方、サ(sa)観自在菩薩の背後に配される、地蔵菩薩(Kṣitigarbha)はカ(ha)で表されています。イ(i「轉字輪漫茶羅行品」第八)と記される場合もあります。
仏画ポスター 胎蔵界種子曼荼羅 法曼荼羅 [iw130906a16]
地蔵菩薩は地蔵尊、お地蔵さまとの愛称で親しまれ、「五濁悪世の無仏世界」(玄奘訳『大乗大集地蔵十輪経』巻第一「序品」)にあって、地獄にも赴かれる(「剡魔(Yama)王の身と作り、あるいは地獄卒の身と作り、云々」『同』)、六道能化の仏さまとして、「左手に宝珠を持し、右手に錫杖を執」る、剃髪円頂の比丘形のお姿で知られています(『薄草子口決』、『溪嵐拾葉集』に言及される「地藏菩薩念誦儀軌」の一節)が、胎蔵マンダラで画かれる地蔵菩薩のお姿は明らかに異なります。胎蔵図像では「左手、蓮華を執り、[その]台の上には宝印あり、右手、掌を挙ぐ」、すなわち右手は施無畏のポーズを示しています(菩提流志訳『不空羂索神変真言経』巻第九「広大解脱曼荼羅品」第十二)。現図マンダラでは、「白肉色にして、左手、蓮花を執り、[その台の]上に[一切の願を滿たす]幢幡(*patāka旗, *ketu, *dhvaja, *yaṣṭi)あり、右手[心に当て、掌、上に仰げ]宝珠を持」ち(『秘蔵記』)、そして、頭に天冠をいただき、瓔珞をもって身を飾る菩薩形のお姿で画かれているのです。
「地蔵菩薩」の地(kṣiti)は文字通り、大地、土壌の意味であり、忍耐強く(「安忍して動ぜざること、猶お大地の如く」『十輪経』巻第一、序品第一)、私たちの日々の善し悪しの行いをしっかりと受けとめ(「よく法界衆生の善根の種子を持して」『大日経義釈』巻第七)、尽未来際にわたって無限の功徳(「無盡莊嚴藏」)を実らせる(「宝性[異読として、実性]の功徳を出生して窮尽有ることなし」『同』)、如意珠にもたとえられる(「如意珠の、衆[おお]くの財宝を雨ふらせるが如く」『十輪経』巻第一、序品)、浄菩提心の、大地のごとき働きを本性とする(-garbha)仏さまを地蔵菩薩とするのです。
地蔵菩薩のご真言とし「オン カカカ ビサンマエイ ソワカ oṃ ha ha ha vismaye svāhā」がよく知られています。梵字のカ(ha)は、「これ行(金剛不可壊行)の義、またこれ笑(*hāsa)の義、喜(*harsa)の義なり」、「因(hetu)の義」とあり、三つのカ(ha)を、声聞乗、縁覚乗、菩薩乗の「三乗の因」、そしてその「三因を離る」とします。すなわち、カカカは「[地蔵]菩薩は、能く、種々三乗行門を説いて衆生を利益す。十輪広説の如し。」と解釈するのです。おそらくは、三乗を行ずる素因となり、その因子・要素をも最終的には離れるということなのでしょう。「ビサンマエイ(希有なるお方よ)」に対しては「一切の有情には、當さに我想・煩悩有り、わずかにこれを念ずれば、我想すなわち除く。これをまさに希有となす、またこれ希奇(*adbhuta)の義なり」とあり、地蔵菩薩とご縁を結べば、我執のとらわれを離れるというのです。私たちは我執があるによってさまざまな過ち、不善なる行いを犯してしまうのでしょう。地蔵菩薩と仏縁を結ぶことを通して、私たちは、地獄・餓鬼・畜生の三悪趣へと堕する根本原因を除くことができるというのです、それは実に喜ばしきことであり、もちろん希有なることなのです。
地蔵菩薩にはなぜ、剃髪円頂の比丘形のお姿と、菩薩形のお姿とがあるのでしょうか。それは「内に菩薩の形を秘め、外に比丘[の姿]を現ず」(「地藏菩薩念誦儀軌」)と理解されますが、玄奘訳『十輪経』序品第一に、「地蔵菩薩摩訶薩、八十百千那庾多頻跋羅(nayuta-bimbara)の菩薩と神通力を以て声聞の像を現」ず、「ならびに諸の眷属、声聞の像を作して、まさにここに来至せんとし、神通力を以てこの変化を現ず」との記述があるように、すでに大菩薩でいらっしゃる地蔵尊は、「諸の有情を成熟利益し、安楽ならしめんと欲する爲なるが故に、大悲堅固にして壊し難き勇猛なる精進の無尽なる誓願を発起」(『同』序品第一)して、比丘・声聞仏弟子の姿を執り、私たちの身近に身を留められ、私たちと一緒に時を過ごすこと(「一一の日に於いて、晨朝の時毎に、諸の有情を成熟せんと欲するが爲なるが故に、殑伽河沙等の諸の定に入る」『同』序品第一)を望まれているからなのです。そしてその功徳は、弥勒、妙吉祥(文殊)、観自在、普賢等の大菩薩摩訶薩方以上に勝れている(『同』序品第一)というのです。それもまさしく「希有なること」であるのです。
なお地蔵菩薩が錫杖を執るに至るのは、生身(しょうじん)の僧が念珠と錫杖を携えて各地を遊行するその姿に準じてのことのようです。大澤 信「被帽地蔵の図像成立に関する一考察」を参照しての所感です。
最後に、地蔵菩薩を讃嘆する偈をご紹介いたします。
稽首地蔵尊 堅固金剛幢 大定智慧力 超過諸菩薩
遊化於六道 二仏中間師 我今三業善 摂受大願海