昨日、無常であるということについて学習いたしました。まずは、こんな下りから始まりました。
「むじょう」って漢字ではどう書くでしょうしょうか。三択です。
無上 無常 無情
すべて「むじょう」と読みます。本日はこのうち、「無常」(anitya)についてお話しします。基本的知識を入手するため、末木文美士監修『仏教 雑学3分間ビジュアル図解シリーズ』PHP研究所2005, p.20を開いてみました。次のようにあります。
仏教の基礎3 三法印/四法印
法印(ほういん)とは、仏教の教えの特徴のことです。三種または四種にまとめられて三法印、あるいは四法印(しほういん)といわれています。三法印とは、「諸行無常(しょぎょう・むじょう)」、「諸法無我(しょほう・むが)」、「涅槃寂静(ねはん・じゃくじょう)」です。これに「一切行苦(いっさいぎょう・く。一切皆苦 いっさいかい・く)」を加えたものが四法印です。また今日、東南アジア諸国で有力な上座部仏教では、この四つから「涅槃寂静」を省いた三つの特相というまとめ方が用いられています。
さて「諸行無常」についての説明となります。
諸行無常という場合の「諸行」とは、すべての形成されたもの、この世のすべてのものを意味します。「無常」は、常住(じょうじゅう)ではない、変化するという意味です。
以上です。「すべての形成されたもの」(サンスクリット語では、saṃskāra形成作用a mental conformation. 行)、ここでは複数表現であり、諸々の因・縁に依って生じたもの、すなわち縁起(pratītyasamutpāda縁って生起したもの)、有為(うい。saṃskṛta作り上げられたもの)を意味します。具体的には、色蘊をはじめとする五蘊、五つの感官(眼・耳・鼻・舌・身)と意(= 心。認識作用)の六根と、その対象となる六境との十二処で、私たちが経験している諸々の現象すべて(conditionings, conditioned states)、です。それが「変化する」とは、生起と消滅を性質とする、ということであり、常住ではなく(英語表現ではnot everlasting)、移ろいやすい(unstable, uncertain)、時には生じ、もしくは生じない、それがあってもいつまでも同じ状態ではない、一時的な存在ともいえましょう。それをひとことでいえば「諸行無常」となります。諸々の因・縁に依って生じたもの、すなわち縁起(pratītyasamutpāda縁って生起したもの)、有為(saṃskṛta作り上げられたもの)([諸々の因・縁から]生じたものは作られたもの(= 有為)であるskye ba can ni byas pa yin paということ)は、必然的に無常である、ということです。
つづいて諸法無我以下の説明もあわせて読んでおきましょう。
諸法無我という場合の「諸法」は、すべてのものという意味で、「諸行」とほぼ同義です。「無我」は、不変の本質(我)をもたないという意味です。つまり、すべてものは不変の本質をもたないという意味になります。
私たちはすでに、次のような経文を知っています。
比丘たちよ、色は無常である。無常であるものは苦である。苦であるものはアートマン(我)ではない。アートマンでないもの、それは私のものではなく、私自身ではなく、私のアートマンではない。
rūpam bhikkave aniccaṃ/ yad aniccaṃ taṃ dukkhaṃ/ yaṃ dukkhaṃ tad anattā/ yad anatta taṃ netam mama neso ham asmi na meso atta ti// (SN ⅲ.22-3-16)
ここでは、涅槃寂静を除く、無常、苦、無我が関連づけられて説かれています。苦であるものはアートマンではないのですから、その苦の意味するところは、単に苦しみとか苦痛などの意味ではなく、諸法(sarvadharmāh.われわれが経験し知覚できるもの。その意味では「諸行とほぼ同義」です)は、何であれ思い通りにならないもの、であることを意味すると説明されるのです。法(dharma)は、五位七十五法、五位百法とあるように、無為(asaṃskṛta)をも含めて用いることもできます。
涅槃寂静とは、煩悩の火が消えた(「涅槃」)心静かで安らかな状態(「寂静」)のことです。仏教では、執着を離れ、憂い(補:苦の同義語です。悲しみ、悩み、嘆きなどがともに列挙されます)をなくし、この涅槃寂静の境地に至ることを目標にしています。
比丘たち、とうとい真実としての苦(苦諦)とはこれである。つまり、生まれることも苦であり、老いることも苦であり、病むことも苦である。悲しみ・嘆き・苦しみ・憂い・悩みも苦である。憎いものに会うことも苦であり、愛しいものと別れることも苦である。欲求するものを得られないのも苦である。要するに、人生のすべてのもの――それは執着をおこすもとであある五種類のものの集まり(五取蘊)として存在するが、それがそのまま苦である。
『はじめての説法』(相応部52.11)の一節です。つついで、苦の生起の原因、苦の消滅、苦の消滅に進む道が説かれます。苦の消滅(苦の止滅。苦の代表としての老いと死の滅尽)、八正道の実践をささえる知性(prajñā般若、jñāna智)によって、苦の生起の原因である渇愛等の煩悩の滅、鎮まることが涅槃(nirvāṇa)、その中核的な要素であるといいます。なお「寂静」のサンスクリット語はśānta<śāntiシャーンティです。
一切行苦とは、この世界のすべてのものは苦(く)であるということ。仏教で考えられているもっとも基本的な苦は、生・老・病・死の四つの苦です。(補:以下一文は省略)
仏教ではこの世界の現状を、無常であり、無我であり、苦であるととらえています。そして、そのような状況を離れた状態、つまり涅槃を目ざすことが説かれているのです。
苦の意味についてはすでに説明いたしました。仏教は、無常であり、無我であり、苦であると教えられるこの生の状態を離れて、寂静な涅槃を目ざすといいますが、大乗仏典(『大般涅槃經』No.374, 曇無讖譯)では、「願わくは、諸の衆生、悉く常楽我浄(* nitya-sukha-ātma-śubha)に安住して、永く四[顛]倒を離るることを得ん(願諸衆生悉得安(456a06)住常樂我淨、永離四倒)」との誓願が述べられること(「我者(617a23)即是佛義。常者是法身義。樂者是涅槃義。淨者是法義(諸仏菩薩の所有の正法・功徳法のこと)」)も、私たちは忘れてはなりません。
ひとまず以上のような学習内容でした。最後に「雪山偈」とも呼ばれる「諸行無常 是生法滅 生滅滅已 寂滅為楽」のパーリ語原文を確認しておきます。
Aniccā vata saṃkhārā uppādavayadhammino/ uppajjitvā nirujjhanti (現われ出ては、消滅する)tesaṃ vūpasamo sukho(それら生滅の諸法の鎮まった状態が安楽・涅槃である)『大般涅槃経』
以下の論文を参照しました。
鈴木隆泰「『諸行無常』再考」『山口県立大学国際文化学部紀要』10巻 2004
酒井真道「ダルマキールティによる『諸行無常』の証明」『印佛研』62巻第2号2013
口頭のお話しでは、それ以外にも、粗大な無常、微細な無常(刹那滅を含む)について、また無常に対する消極的なアプローチ、積極的なアプローチなどについても言及しました。また機会があれば、文章にしてご紹介いたします。