『大日経』住心品 十縁生句

祕密主、若し眞言門に菩薩の行を修する諸の菩薩は深修して十縁生句を觀察し、當さに眞言行に於いて通達す作證す。乃至、実の如く遍く一切の心相を知ることを(得べし)。

Tib. gsang ba pa’i bdag po de’i tshe byang chub sems dpa’ gsang sngas kyi sgo nas byang chub sems dpa’i spyad pa spyod pa gzhi bcus rten cing ‘brel bar ‘byung ba rnams bsgoms te gsang sngags kyi tshur rtogs par khong du chud par ‘gyur ro //

秘密主よ、さてそのとき、真言門より菩薩行を修する菩薩たちは、十句(*daśapada)をもって縁起せるものを修して、真言理趣(mantranaya)を悟解するのである。

 

『大日経疏』巻第三 十縁生句によって心の垢を浄除する 

(經云。祕密主。若眞言門修(606b05菩薩行諸菩薩。深修觀察十縁生句。當於眞(b06言行通達作證。乃至如實遍知一切心相者。)(b07是略答前問中修行句也。如下文萬行方便(b08中。無不藉此十縁生句淨除心垢。是故當知(b09最爲旨要。眞言行者特宜留意思之。

 

是れ(/是れは)略して前の問の中の修行の句(= 第七句)を答するなり。下の文(しものもん)の万行の方便の中の如きは、此の十縁生句に藉(よ)って心垢を淨除せざることなし。是の故に當さに知るべし、(十縁生句の観は)最も旨要とす。眞言行者、特(こと)に宜しく意を留めて之を思うべし。

 

九句の発問のうちの第七句「(実践すべき)行(caryā)とは、どのようなものとなるのか(spyod pa ci ‘drar ‘gyur ba dang //)」(大日経住心品 九句の発問・後半2025-05-18)

 

『大日経疏』巻第三 十縁生句の観察 三種の幻

然統論(606b10此品中十縁生句。略有三種。一者以心沒蘊(b11中。欲對治實法故。觀此十縁生句。如前所説。(b12即空之幻是也。二者以心沒法中。欲對治境(b13界攀縁故。觀此十縁生句。如前所説。蘊阿頼(b14耶即心之幻是也。三者以5心沒心實際中。(b15欲離有爲無爲界故。觀此十縁生句。如前所(b16説。解脱一切業煩惱而業煩惱具依。即不思(b17議之幻也。摩訶般若中十喩。亦具含三意。

 

然も、此の品(= 住心品)の中の十縁生句を統論するに略して三種あり。一には、心、蘊の中に沒する(= 文字通りには、心が五蘊に集中する)を以って、実法(一切法、五蘊が実有であるとの認識)を対治せんと欲うが故に、此の十縁生句を観ず(= 考察、熟考する)。前きの所説の如く、即空(= 無自性・空)之幻、是れなり。二には、心、法の中に沒する(= 心が、法・法処に集中する)を以って、境界の攀縁(はんえん。認識のはたらきを対象として認識すること)を対治せんと欲うが故に、此の十縁生句を観ず。前きの所説の如く、蘊の阿頼耶の即心(= 唯心*cittamātra)之幻、是れなり。三には、心、心の実際の中に没する(= 心が、心の本不生であることに集中する)を以って、有爲・無爲界を(ともに)離れんと欲うが故に、此の十縁生句を観ず。前きの所説の如く、一切の業煩悩を解脱すれども、而も業煩悩の具依たり。即不思議(acintya-)之幻(たとえば、業煩悩として論ずれば、即ち業煩悩としてあらわれる、ということ)なり。摩訶般若の中の十喩に亦た具さに三の意を含ぜり。

 

三種の幻は三劫における所観、すなわち即空の幻は第一劫に、即心の幻は第二劫に、不思議の幻は第三劫に相当します。『摩訶般若』とは、『大品般若経』巻第一、序品「諸法如幻 如焔 如水(217a22)中月 如虚空 如響 如19揵闥婆城 如夢 如(a23)影 如鏡中像 如化」を指しているとのことです。Cf.『大智度論』巻第六「初品中十喩釋論第十一」(vol.25,101c03ff.)

 

『大日経疏』巻第三 不可思議幻 第三劫 生不可得

今(606b18此中云深修觀察者。即是意明第三重。且如(b19行者於瑜伽中。以自心爲感佛心爲應。感應(b20因縁。即時毘盧遮那。現所喜見身説所宜聞(b21法。然我心亦畢竟淨。佛心亦畢竟淨。若望我(b22心爲自。即佛心爲他。今此境界。爲從自生耶。(b23他生耶。共生無因生耶。以中論種種門觀之。(b24生不可得。而形聲宛然即是法界。論幻即幻。(b25論法界即法界。論遍一切處即遍一切處。論(b26幻故名不可思議幻也。

 

今、此の中に「深修觀察」(深修して觀察す)というは、即ち是れ、意は第三重(= 第三劫としての十喩)を明かすなり。且らく行者、瑜伽の中に於いて自心を以ってとし、佛心をとして、感應(かんのう)の因縁(をもって)、即時に毘盧遮那(= 自性身)、所喜見の身(= 受用身、変化身、等流身の三身)を現じ、所宜聞を説きたまうが如きは、然も我が心、亦た畢竟浄なり、佛心、亦た畢竟浄なり。若し我が心に望めてはとし、佛心に即してはとす。今、此の境界(= 瑜伽の中における所喜見の身、所宜聞の法)は、より生ずとや、より生ずるか、共(= 自他)より生ずるか、無因より生ずるか。中論に種種の門をもって之を観ずるに、生、不可得なり。而も形声宛然(えんぜん)として(姿形、音声はそのままに)即ち是れ法界(≒ 真実)なり。(形声は)幻と論ずれば即ち幻なり。法界と論ずれば即ち法界なり。遍一切処と論ずれば即ち遍一切処なり。幻と論ずるが故に、不可思議幻と名づく。

 

世尊大日は「自在神力加持三昧に住して、普く一切衆生の為めに、種種の諸趣(六趣の有情)所喜見の身を示して、種種の性欲(しょうよくāśaya)所宜聞の法を説き、種種の心行に随うて、観照門を開く」、「謝すれば則ち滅し、興すれば則ち生す。に即して而もなり」(神変加持の必要性と必然性2025-01-31)

 

『大日経疏』巻第三 不可思議幻 十喩

復次言深修者。謂得(606b27淨心已去。從大悲生根。乃至方便究竟。其間(b28一一縁起。皆當以十喩觀之。由所證轉深故。(b296言觀察也。

 

復た次に深修というは、謂わく、浄心(= 浄菩提心)を得るより已去、大悲、根を生ずるより、乃し、方便究竟に至るまで、其の間の一一の縁起(= 瑜伽の中における現象)は、皆な當さに十喩を以って之を観ずべし。所證、転(うた)た深きに由るが故に深觀察という。

 

『大日経疏』巻第三 空・有・中

且如四諦義。直示娑呵世界(606c01已有無量無邊差別名。又況無盡法界中逗(c02機方便。何可窮盡。今行者於一念淨心中。通(c03達如是塵沙四諦。空則畢竟不生。有則盡其(c04性相。中則擧體皆常。以三法無定相。故名爲(c05不思議幻。如四諦者。餘一切法門例耳。

 

且らく四諦の義の如きは、直ちに「娑婆世界に已に無量無邊の差別の名あり」と示す。又た況んや、無盡法界の中の逗機(とうき。機根が一致すること)の方便、何ぞ窮盡すべき。今、行者、一念の淨心の中(うち)に於いて、是の如く塵沙の四諦を通達す。(苦・集・滅・道の)といえば則ち畢竟不生なり。(同じく)といえば則ち其の性・相(しょうそう)を盡くす。といえば則ち挙体(= すべて、そのままの状態で)、皆な(= 本不生)なり。三法(空・有・中)、定相(= 一定のあり方)無きを以っての故に(有相即無相)、名づけて不思議幻とす。四諦をいうが如きは、余の一切の法門も例すべし。

 

『大日経疏』巻第三 十喩

是故(c06唯有如來。乃能窮此十喩。達其源底。此經所(c07以次無垢菩提心。即明十喩者。包括始終綜(c08該諸地。既觸縁成觀。不可8縷説。今且依釋(c09)論。明其大歸耳。

 

是の故に、唯だし如來のみ有(いま)して、乃ち、能く此の十喩を窮め、其の源底に達したまう。此の經に無垢の菩提心に次いで、即ち、十喩を明かす所以は、(修行の)始終を包括し、諸地を綜該(そうがい。まとめてあてはめる)するなり。既に(ここでは「概して」の意味か)、縁に触れて観を成ず。縷(つぶ)さに説くべからず。今、且らく釈論(= 『大智度論』巻第六)に依って其の大帰を明かすべし。