五蘊を理解するための基礎資料です。

 

菅谷良明さまの「無我相経と解説」2024年12月2日を参照させていただきました。

 

Anattalakkhaṇasuttaṃ 「無我相経」SN III 66‒68

         
Ekaṃ samayaṃ bhagavā bārāṇasiyaṃ viharati isipatane migadāye
あるとき幸あるお方(= 世尊)はバーラーナシーのイシパタナ鹿野苑に住しておられた。
Tatra kho bhagavā pañcavaggiye bhikkhū āmantesi
ときに幸あるお方は五比丘衆に呼びかけられた
‘‘bhikkhavo’’ti. ‘‘Bhadante’’ti te bhikkhū bhagavato paccassosuṃ.
「比丘たちよ」と。「尊き者よ」と彼ら比丘たちは幸あるお方へ応えた。
Bhagavā etadavoca
幸あるお方はこう言われた。

‘Rūpaṃ, bhikkhave, anattā. rūpañca hidaṃ, bhikkhave, attā abhavissa,
「比丘たちよ、色(受・想・行・識)は我ではない(rūpaṃ … anattā)。比丘たちよ、もし色が我であるならば、 ※『般若心経』rūpaṃ … śūnyatā と同じ構文

 

nayidaṃ rūpaṃ ābādhāya saṃvatteyya, labbhetha ca rūpe –
色は病にかかることはないし、また色に対して
‘evaṃ me rūpaṃ hotu, evaṃ me rūpaṃ mā ahosī’ti.
「私の色はこのようになれ、私の色はこのようになるな」と命じることが出来るであろう。(でもそうではない。)

※色は実際には、我ではないのでそうとはならない。我ならば(それが)有しているはずの属性の一つ「自在性」がないことを根拠に挙げる。

 

(受・想・行・識も同じ。中略)

 

‘Taṃ kiṃ maññatha, bhikkhave, rūpaṃ niccaṃ vā aniccaṃ vā’’ti? ‘‘Aniccaṃ, bhante’’.
「比丘たちよ、そなたらはどう思うか。色は常であるか、無常であるか」、「尊き師よ、無常であります(常在性を持たない)」 無我なるものは無常である

‘‘Yaṃ panāniccaṃ dukkhaṃ vā taṃ sukhaṃ vā’’ti? ‘‘Dukkhaṃ, bhante’’.
「無常であるものは苦であるか、楽であるか」、「尊き師よ、苦であります(楽性を持たない)」 無常なるものは苦である

‘‘Yaṃ panāniccaṃ dukkhaṃ vipariṇāmadhammaṃ, kallaṃ nu taṃ samanupassituṃ – ‘Etaṃ mama, eso ham asmi, eso me attā’’’ti? ‘‘No hetaṃ, bhante’’.
「無常であり、苦であり、変易する性質のものを、これは私のものである、これは私である、これは私の我であるというよに、見る(= 随見)のは正しいか」

これは私のものである。これは私である。これは私の我である」と。「尊き師よ、それは正しくありません」

 

すなわち、変易する性質のものである。苦諦には無常(= 非常)、苦、空、無我(= 非我)の行相があります。苦諦は、無常(= 非常)、苦、空、無我(= 非我)の行相をもって、繰り返し観察されます。「変易する性質のもの」とは、縁起せるもの、と言いかえられるなら、縁起せることを根拠にして、空であることが導かれます。(苦諦には非常・苦・空・非我、集諦には因・集・生・縁、滅諦には滅・静・妙・離、道諦には道・如・行・出、以上のそれぞれの行相がある。)

 

(受・想・行・識も同じ。中略)

 

‘‘Tasmātiha, bhikkhave, yaṃ kiñci rūpaṃ
「比丘たちよ、それゆえ、いかなる色も、(すなわち)

atītānāgatapaccuppannaṃ
過去のもの、未来のもの、現在のものであれ、
ajjhattaṃ vā bahiddhā vā oḷārikaṃ vā sukhumaṃ
内なるもの、外なるものであれ、粗大なものであれ、微細なものであれ、
vā hīnaṃ vā paṇītaṃ vā yaṃ dūre santike vā,
劣ったものであれ、優れたものでであれ、遠いもの、近いものであれ、
sabbaṃ rūpaṃ – ‘netaṃ mama, neso ham asmi, na me so attā’ti evam etaṃ yathābhūtaṃ sammappaññāya daṭṭhabbaṃ.
すべての色は「これは私のものではない、これは私ではない、これは私の我(≒svabhāva本質)ではない」とこのようにあるがままに(= 如実に)正しい智慧によって観られるべきである。

 

(受・想・行・識も同じ。中略)

 

私の五蘊だけでなく、すべての五蘊、すべての物質(色)と心作用(受想行識)が、すなわち有情世間と器世間を含むすべての現象(一切行)が、無我(非我)であると結論されている。衆生が存在し認識する世界のどれ一つも我(アートマン)ではないと,釈尊はその説法の最初から断じていたのである(一性を持たない)。

 

‘‘Evaṃ passaṃ, bhikkhave, sutavā ariyasāvako rūpasmimpi nibbindati, vedanāyapi nibbindati, saññāyapi nibbindati, saṅkhāresupi nibbindati, viññāṇasmimpi nibbindati.

比丘たちよ、このように見ると、多聞の聖なる弟子は、色をも厭い、受をも厭い、想をも厭い、行をも厭いか識をも厭う。

Nibbindaṃ virajjati; virāgā vimuccati.
厭うゆえに貪りを離れる。貪りを離れるゆえに解脱する。
 

Vimuttasmiṃ vimuttamiti ñāṇaṃ hoti.
解脱すれば、「解脱した」という智慧が生じる
‘Khīṇā jāti, vusitaṃ brahmacariyaṃ,
「生まれることは滅尽した。修行(= 梵行)は完成した。
kataṃ karaṇīyaṃ, nāparaṃ itthattāyā’ ti pajānātī’’ti.
なすべきことはなした、もはや生まれることはない」と知るのである、と。 

Idamavoca bhagavā. Attamanā pañcavaggiyā bhikkhū bhagavato bhāsitaṃ abhinanduṃ 2
幸あるお方がこれを説かれると、五人の比丘は幸ある方の教説を心から喜んで受け入れました。
Imasmiñca pana veyyākaraṇasmiṃ bhaññamāne pañcavaggiyānaṃ bhikkhūnaṃ anupādāya āsavehi cittāni vimucciṃsūti. Sattamaṃ.
この教説が説かれているうちに、五人の比丘は心に執着がなくなり、根源的な欲より解脱したのでした。