『大日経疏』巻第二「有爲・無爲界を離れ、諸の造作を離れ、眼耳鼻舌身意を離れて、極無自性心生ず」

 

既不壞因(604a14縁即入法界。亦不動法界即是縁起。當知因(a15縁生滅。即是法界生滅。法界不生滅。即是因(a16縁不生滅。故曰離有爲無爲界。若如來出世(a17若不出世。諸法法爾如是住。故曰離諸造作。(a18如般若中。一切法趣眼是趣不過。猶如百川(a19赴海更無去處。是故當知眼即是第一實際。(a20第一實際中。眼尚不可得。何況趣不趣耶。耳(a21鼻舌身意亦如是。故曰離眼耳鼻舌身意。

 

既に因縁(= 従因縁生起の有爲の諸法)を壊せずして、即ち法界に入る。亦た法界を動ぜずして(= 法界・無爲のあり方を離れずして)、即ち是れ縁起す。まさに知るべし、因縁(従因縁生起の有爲の諸法)の生滅は、即ち是れ法界の生滅なり。法界の不生滅(= 法界・無爲のあり方)は、即ち是れ因縁の不生滅なり。故に「離有爲無爲界(有爲と無爲との界を離れ)」という。若しは如來の出世にも、若しは不出世にも、諸法は法爾(dhamatā法性。諸法についてのきまりごと)にして是の如く住す。故に「離諸造作(諸の造作を離れ)」という。

 

従因縁生起の有爲の諸法は、そのまま法界(のあり方)であり、無爲、法爾である、との主張が示されています。その根拠は、次の説かれるように、「眼」(眼根、眼処、視覚機能)に代表される有爲なる法が(真実のあり方からすれば)「第一実際」に達しているから、ということのようです。そして「第一実際に達している」とは、縁起生に他ならない、というのです。

 

utpādād vā tathāgatānām anutpādād vā sthitaiveyaṃ dharmatā(諸々の如来は誕生するしないにかかわらず、この法性は確定している)という一文が、縁起(、および縁起した諸法)に関する定型句として伝えられています。

 

般若(= 大般若)の中にいうが如し。一切の法、眼に趣きて(眼[の空性]に趣入、すなわち邁進し、そこに達すると)、是に趣いて(更に)過ぎず。(何を以っての故に、眼にあっては、趣くと、趣かざると、不可得なるが故なり。)猶おし百川の、(ひとたび)海に赴けば、更に去る処なきが如し。是の故にまさに知るべし。眼、即ち是れ第一(*paramārtha-)実際(bhūtakoṭi)なり。第一実際の中には、眼すら、尚おし不可得なり。何に況んや、趣、不趣をや。耳鼻舌身意も亦た是の如し。故に「離眼耳鼻舌身意(眼耳鼻舌身意を離れて)」という。

 

『般若』として言及されているのは、たとえば、鳩摩羅什訳『摩訶般若波羅蜜經』の以下のような経文です。

 

(332c17)須菩提。菩薩摩訶薩阿耨多羅三藐(c18)三菩提時。爲衆生説色空。説受想行(c19)識空。乃至11説一切種智空。爲衆生(c20)説色非趣非不趣。何以故。是色空相非趣(c21)非不12趣。説受想行13識非趣非不趣。何以(c22)故。是受想行識空相非趣非不趣。乃至一(c23)切種智非趣非不趣。何以故。14是一切種智(c24)空相非趣非不趣。如是須菩提。菩薩摩訶(c25)薩爲世間故。發阿耨多羅三藐三菩提(c26)心。

 

行(604a22者得如是微細慧時。觀一切染淨諸法。乃至(a23少分猶如隣虚。無不從縁生者。若從縁生。即(a24無自性。若無自性。即是本不生。本不生即是(a25心實際。心實際亦復不可得。故曰極無自性(a26)心生也。

 

行者、是の如くの微細(みさい)の慧(え)を得る時、一切の染・浄の諸法(有漏・無漏の法)を観ずるに、乃至、少分、猶し隣虚(りんこ。極微に同じ)の如くも、縁より生ぜざるものなし。若し縁より生ずるは、即ち自性(svabhāva それ自身を特徴づける本質、不変なる本性は)無し。若し自性無きは、即ち是れ本不生(ほんぷしょう)なり。本不生は即ち是れ[自]心の実際なり。心の実際も亦復た不可得なり。故に「極無自性心(きわめて、すなわち、まったく何一つとして、自性と呼べるものなきことを認識し、しかも不可得なる)心(が)生ず」という。

 

縁起生なるものは、自性を欠いて(存在、機能して)います。それを肯定的に表現して、本不生、心の実際というのですが、それもまた不可得であると知らなければなりません。そしてその理解を踏まえてはじめて、成仏のための、真実の仏道、真言門に邁進できるとするのです。