『大日経疏』巻第二 初発浄菩提心時の行者の功徳

 

又世尊所以(603b28先廣説如上諸心相者。爲教眞言門諸觀行(b29人。若行至如是境界時。則須明識。不得未到(c01謂到。而於中路稽留也。

 

又た世尊、先きに広く如上の諸の心相(諸々の心差別の相としての、六十心)を説きたまう所以(ゆえ)は、眞言門の諸の観行人をして、若し是の如くの境界(きょうがい。stage, state of mind「諸仏境界、仏智境界」の意)に行至せん時に、則ち須らく明らかに識って、未到を到と謂うて、中路に於いて稽留(けいる。とどこおる、こと)することを得ざらしめんが爲なり。

 

六十心所説の意図として、先に「まさに一切時に於いて、心を留めて、覚察すれば、自然に浄菩提心に順ずることを得」(600b20-21. 2025/07/01投稿分)とありました。

 

初発浄菩提心時の行者の功徳 菩薩としての誕生

復次如輪王太子初(c02誕育時。衆相備足無所缺減。雖未能遍習衆(c03藝統御四洲。然已能6任持七寶。成就聖王家(c04)業。何以故。以即是輪王具體故。

 

復次に輪王(= 転輪聖王)の太子の、初めて誕育する時、衆相(さまざまな身体的特徴を)備足して欠減する所なし。未だ能く遍く衆芸(さまざまな武芸・学問等)を習い、四洲(ししゅう。四大洲)を統御せずと雖も、然も已に能く七宝を任持し、聖王の家業(けごう。継承されたなりわい、務め)を成就するが如し。何を以ての故に、即ち(太子は)是れ輪王の具体(本体を完備すること)なるを以ての故なり。

 

誕生されたお釈迦さまを抱き抱えて、王子としてのお釈迦さまに、人として最高の身体的特徴を完備していることを見て取ったアシア仙の逸話(『スッタニパータ』v.690など)を想起させます。

 

眞言行者初(603c05入淨菩提心。亦復如是。雖未於無數阿僧祇(c06劫。具7普賢衆行。滿足大悲方便。然此等(c07如來功徳。皆已成就。何以故。即是毘盧遮那(c08具體法身故。是以經云無量無數劫。乃至智(c09慧方便皆悉成就也。

 

真言行者の、初めて浄菩提心に入る(= 初法明道)ことも、亦復た是の如し。未だ無數阿僧祇劫において、具さに普賢の衆行を修し、大悲方便を滿足せずと雖も、然も此れ等の如來の功徳(= 智慧方便は)皆な已に成就す。何を以ての故に、即ち是れ(= 浄菩提心は毘盧遮那具体法身なるが故なり。是れを以て、経に「無量無数劫、乃至、智慧方便皆悉成就」という。

 

この一文は経文「眞言門修行菩薩行諸菩薩。無量無數百千倶胝那庾多劫積集。無量功徳智慧。具修諸行無量智慧方便。皆悉成就者」に対する“伝統的な読み”を支持しています。なお「具体法身」の「法身」は、とくに、それが、無為なる存在であることをいうようです。

 

又如王子始生。又已龍(c10神兆庶之所宗歸。初發淨菩提心。亦復如是。(c11已爲天人世間迷失正道者。作大歸依。若常(c12途諸論所明。證此心時。即名爲佛。是故舍利(c13弗等一切聲聞縁覺。盡其智力。不能測量。經(c14云所謂出過一切聲聞辟支佛地也。以行者(c15得此心時。即知釋迦牟尼淨土不毀。見佛壽(c16量長遠。本地之身與上行等從地8湧出諸菩(c17薩。同會一處。修對治道者。雖迹隣補處。然不(c18識一人。是故此事名爲祕密。又此菩薩。能於(c19畢竟淨心中。普集會十方法界諸佛菩薩。亦(c20自能普詣十方。供養諸善知識。詢求正法。唯(c21獨自明了。諸天世人莫能知。由此因縁。復名(c22祕密。前二劫中。雖云度二乘地。雖須菩提(c23等。猶能承佛威神。衍説人法倶空。而於此祕(c24密一乘。心生驚疑。不知所趣。乃名直過聲聞(c25辟支佛地也。

 

又た王子の始めて生じるとき、又た已に龍神、兆庶(ちょうしょ。兆民、万人のこと)の宗帰する所なるが如く、初発浄菩提心も亦復た是の如し。已に天・人・世間の、正道を迷失せる者のために、大帰依(偉大な帰依処)となる。

 

若し常途の諸論に明かす所は(以下、『華厳経』、『法華経』を念頭においての説明です)、此の心を證する時、即ち名づけて佛とす。(いわゆる「初発心時便成正覚」)是の故に、舍利弗等の一切の声聞、縁覚は、その智力を尽くせども、測量(しきりょう)すること能わざれば、経に、「(所謂ゆる)一切の聲聞・辟支佛地を出過す」というなり。以(すで)に行者、此の心を得る時、即ち釈迦牟尼の浄土、毀せずと知り(= 霊山浄土)、佛の寿量長遠・本地の身(= 久遠実成)、上行(viśiṣṭa-cāritra殊勝な行い)等の從地湧出の諸の菩薩と一処に同会すと見る。対治道を修する者は、迹(あ)と補処(ふしょ)に隣(とな)ると雖も、然も一人をも識らず。是の故に、此の事(じ)を名けて、秘密とす。

 

又た(= しかも)此の菩薩(は)、能く畢竟浄心の中(うち)に於いて、普く十方法界の諸佛菩薩を集会せしめ(= 自心にマンダラを見いだし)、亦た自ら能く普く十方に詣して、諸の善知識を供養し、正法を詢求(しゅんぐ。尋ね求める)す。唯だし独り自ら明了にして、諸天世人は能く知することなし。此の因縁に由って復た秘密と名づく。前二劫の中に、二乘地を度すというと雖も、須菩提等、猶おし能く佛の威神を承けて、人法倶空を衍説すと雖も、而も此の秘密一乘に於いては、心(こころ)に驚疑を生じ、所趣を知らざれば、乃ち、直きに聲聞・辟支佛地を過ぐと名づく。

 

「対治道を修する者は、迹と補処に隣ると雖も、然も一人をも識らず。是の故に、此の事を名けて、秘密とす」との「秘密」と、ここ「秘密一乗」の「秘密」との意味内容が違っているのか、それとも同じであるのかについての考察は、いまは保留とします。

 

時大威徳諸天。不見菩薩心所(603c26依處。咸生敬信。故釋提桓因作如是願言。今(c27此上人不久成佛。若彼成佛時。我當奉吉祥(c28草。四天王亦生此念言。若此菩薩成佛時。我(c29當獻鉢。梵天王亦生此念。若此菩薩成佛時。(604a01)我當請轉法輪。故云親近敬禮也。

 

時に大威徳の諸天(は)、菩薩の心の所依処を見ざれども、咸く敬信を生ず。故に釋提桓因、是の如く願を作して言わく、今、此の上人(は)久しからずして成佛すべし、若し彼れ成佛の時には、我れ当さに吉祥草(kuśa)を奉るべし、と。四天王(も)亦た此の念を生じて言わく、若し此の菩薩、成佛の時には、我れ当さに鉢を献(ごん)ずべしと。梵天王(も)亦た此の念を生ず。若し此の菩薩、成佛する時には、我れ当さに転法輪を請うべし、と。故に「親近し敬禮しす」という。

 

これは、お釈迦さまの成道前後の情景をふまえての記述です。すなわち、初発浄菩提心の者には、“成仏”が具体化しているということです。