(投稿して後、漢文の読み、などの修正を加えました。)
『大日経』住心品 第三劫 第三劫を超えた者の功徳をまず讃嘆する
復た次に祕密主、眞言門に菩薩の行を修行する諸菩薩は、無量無數百千倶胝那庾多劫に積集する無量の功徳智慧と、具さに諸行を修する無量の智慧方便とを皆悉く成就す。天人世間の帰依する所、一切の聲聞・辟支佛(の)地を出過し、釈提桓因等親近し敬礼す。
漢文の訓読と、チベット語訳は多少食い違うところがあります。チベット語訳にもとづく、漢文に対する読みは、「復た次に、祕密主、眞言門に菩薩の行を修行する諸菩薩にして、無量無數百千倶胝那庾多劫に積集する無量功徳智慧を具[足する]は、諸行を修して、無量智慧方便、皆な悉く成就す」となります。
gsang ba pa’i bdag po gzhan yang byang chub sems dpa’ gsang sngags kyi sgo nas byang chub sems dpa’i spyad pa spyod pa / bskal pa bye ba khrag khrig brgya stong dpag tu med par bsod nams dang ye shes kyi tshogs dpag tu med pa bsags pa rnams la shes rab dang thabs dpag tu med pas yongs su bzung ba / lha dang lha ma yin du bcas pa’i ‘jig rten gyis phyag byas pa / nyan thos dang / rang sangs rgyas thams cad kyi sa las yang dag par ‘das pa / brgya byin dang dang / tshangs pa’i dbang po dang / nye dbang la sogs pas phyag byas pa ‘di lta ste /
さらにまた、秘密主よ、無量(aprameya- はかりしえない)にして百千(śata-sahasra-) 倶胝那庾多劫(kalpa-koṭi-nayuta-)に福・智(puṇya-jñāna)の無量の資糧(saṃbhāra)を積み集めた、真言門より菩薩行を修する菩薩たちには、無量の般若(prajñā)・方便(upāya)によって摂受され、天・非天を含めた世間によって敬われ、声聞・独覚のすべての地を完全に超え(samati-√kram)、インドラ、梵天主、梵輔天等によって敬われる(という功徳がある)。すなわち、
『大日経疏』巻第二 第三劫
經云。復次祕密主。眞言門修行菩薩(603b16)行諸菩薩。無量無數百千倶胝那庾多劫積(b17)集。無量功徳智慧。具修諸行無量智慧方便。(b18)皆悉成就者。即是欲明超第三劫之心。欲令(b19)見聞者信樂尊重故。先歎其功徳耳。
經に「復次祕密主。眞言門修行菩薩(603b16)行諸菩薩。無量無數百千倶胝那庾多劫積(b17)集。無量功徳智慧。具修諸行無量智慧方便。(b18)皆悉成就」とは、即ち是れ、第三劫を超うる(の)心を明かさんと欲して、見聞者をして信楽(しんぎょう)し、尊重(そんじゅう)せしめんと欲うが故に、先ずその功徳を歎ずる耳。
可知如(603b20)餘教中菩薩。行於方便對治道。次第漸除心(b21)垢。經無量阿僧祇劫。或有得至菩提。或不至(b22)者。今此教諸菩薩。則不如是。直以眞言爲乘。(b23)超入淨菩提心門。若見此心明道時。諸菩薩(b24)無數劫中所修福慧。自然具足。譬如有人以(b25)舟車跋渉。經險難惡道得達五百由旬。更有(b26)一人。直乘神通飛空而度。其所經過及至到(b27)之處。雖則無異。而所乘法有殊。
知るべし、余教の中の菩薩の如きは、方便・対治の道を行じて、次第に漸(ようや)く心垢を除き、無量阿僧祇劫を経て、或いは菩提に至ることを得る有り、或いは至らざる者あり。
「方便・対治の道を行じて、次第に漸く心垢を除き」は、意味は、先の「是れ、心外の垢を対治して」と同じで、発生した問題などを適切に処理するための第二次的、対処法的な修行法、というほどの意。
今、此の教の諸の菩薩は、則ち是の如くにあらず。直(じ)きに眞言を以て乘として、淨菩提心門に超入す。若し此の心明道を見る時には、諸の菩薩の無數劫の中に修する所の福・慧(は)自然に具足す。譬えば、人有って、舟車を以て跋渉し、険難悪道を経て五百由旬に達することを得。更に一人有って、直きに(= はじめから)神通に乘じて空を飛んで度す。その(両者の)經過する所(「五百由旬」)、及び至到の処(「菩提」)、則ち異(い)無しと雖も、而も所乘の法に殊有るが如し。
顕教の者が険難な道程を舟や車で行くのに比して、真言密教は三密瑜伽の三密行によって空を飛ぶが如く、一挙に本有の浄菩提心を開顕する、ことをいいます。
なお、「自然に具足す」とあるのには、注意が必要です。
なお「經険難悪道得達五百由旬」とあるのは、『法華経』「化城譬品」第七等を踏まえたものです。『大日経疏』は、「余教の中の菩薩」と「此の教の諸の菩薩」との違いを「所乘の法」(修するところの教え)にこそあるとします。
まずは、第三劫を超えた者の功徳を簡潔に讃嘆しました。